小野田三郎    続  話』

 日本フルートクラブ会報に連載時代から人気の高かった小野田さんの笛にまつわる随筆『話』の続編です。残念ながら小野田さんの退会にともない、創刊号より25回にわたって連載されてきた『続 話』も今回で最終回を迎えることとなりました。

更新2007.10.19

その25 (最終回)

初出:ナナカマド短信25号/2007年4月1日

 新聞記者だった安東美佐子さんに初めてお会いした時「最初っから余生といった感じ」と言われました。先輩矢羽さんのお弟子さんで、当時よく矢羽さんのところと合同の発表会をやっていました。二三十年前です。「見てる人は見てるんですよ」と言ってくれた人が誰れかは流石に忘れました。後に、彼女は大学の先生になって金のフルートを吹く傍ら比較文化論か何かを講義しています。彼女にはいろいろ教わりました。中でもヒンズーに関する事は折に触れ・・・・ヒンズー教はいわゆる宗教でなく人生全般の教えだそうです。一生を、学生(がくしょう)、家長、林住、遊行(ゆぎょう)の四期に分けます。林で笛を吹いているくらいですから私は林住です。彼女は大学に行く事になって、家長期に逆もどりですと嬉しそうでした。何期はともかく、笛で何を吹いているかが問題です。
 年上の小又良一さんの今年の賀状に「最近は生と死の間に老と病が長期入り込んで来ており困っております。笛も哲学的になります」とありました。老病のため音楽から哲学への移行がすみやかに行なわれているらしいのに対し、私は健康で頗る緩慢です。小又さんはベームの『ベームフルート』を翻訳出版され、フルートクラブ会報に十年間四十三回に亘って「音楽家の物理学」を連載しています。若い頃同人雑誌に拠り文学を志したそうです。フルートに関するエッセイ等心に残る文章が多かったと記憶します。ビバルディのピッコロ協奏曲の第二楽章ホ短調が仲間うちでもてはやされた頃「端倪すべからざる西洋音楽の結晶」と激賞し、お持ちのモーレンハウエルのピッコロで私の臨終の枕元で吹いて下さると約束されました。後に小又さんが、篠笛の演奏と能管の製作をそれぞれ師について極められたのを知りました。その間に年若い金竹隆志さんがリコーダーのソプラニーノでこの曲を吹いて、うっとりさせて下さいました。それを思い出して、最後は年の順かと怪しからぬ事を考えていたら、安東さんの知的で美しい顔が「余生の果ての語呂合わせ」と雲の果(はたて)でニヤッと笑ったようでした。私のフルートは、吹いていて音だけの音だと気がついた事がありますが、まず九十パーセント音楽です。意識して音だけと思っても、音色には頼っているようです。禅僧やヨーガの行者のように、己れだけの安心立命(あんじんりゅうめい)を願い解脱の境地を目指し、深山幽谷でフルートを吹いて、音色を忘れ呼吸法だけ。いずれフルートも捨てて恍惚のうちに・・・・三十年先でしょうか。
いまは林でフルートを吹いて毎日清々しい気分です。それと、私は寺方の生まれのせいか体質的に金銭不浄視です。五六年前レッスンをやめてほのかな後ろめたさも無くなり、いまや、いっとう好きな言葉どおり長閑、のどかです。小又さんについては一言。忘れもしない三月八日。モーレンハウエルの綴り確認にかこつけて電話しました。端倪すべからざる西洋音楽はどうなったか。それより心配の老病は。恋女房に吸い呑みで煎じ薬を呑まされて、むせたりして・・・・電話器の向こうで弾んだような若々しい小又さんの声が言ってくれました。
 「モーレンハウエル? あゝ、とっくに手放した」
 年下の進藤和彦さんは賀状によれば(彼も矢羽さんのお弟子)年末に大阪から東京の品川駅に来て「品川行きはどこですか」と聞き駅員の哀れむような目を見たそうです。東京にいた時河川敷で練習をして、フルートの音で江戸川のボラが悶え苦しんで飛び跳ねたとか、大阪の池田に戻って高速道路の下でハンガリー田園幻想曲を吹いたら、高架に巣くっていたカワラヒワの雛が魂消て落ちたとか、とかく小動物には迷惑の人のようです。最初っから音感の秀れた人という印象は強いのですが。彼の音には奥方も悶え苦しむので小動物に分類されていて、池田のボラとよく書いて来ます。お陰で私も東村山のボラなんて、陰で心にもない事を言っています。東京の呑み屋の二階で二人で呑んでいて、私が地元の不良と口論となり、階段の下に落とすか落ちるか覚悟した時、身を挺して割って入り、平謝りに謝ってくれました。大動物を鎮める術に長けているようです。食い倒れの大阪で旨い店に案内するからいらっしゃいと昔から言ってくれています。賀状を読んで急遽行く気になりました。会って、どちら様でしたか、なんて言われないうちに。フルートの合奏が楽しみです。南紀白浜のリゾートマンションも使わせて下さるそうです。桜の真っ盛り。とにかくフルートを持って旅行できる! 至福です。旅行の最後に那智へ行って、碁石、那智黒の高級品を買って来て、友人小沼千明に、「どうだ!」と見せびらかすつもり。
 彼の賀状には「あれもしたい これもと思うことばかり多くて」とありました。彼は私の釣りの師匠ですが、碁の弟子です。
その24

初出:ナナカマド短信24号/2007年1月14日

 三木露風の"ふるさとの小野"は、兵庫県の小野でした。現在は、小野市。
 詩人露風と言っても、知っている詩はこの「ふるさとの」と、山田耕筰作曲の「赤とんぼ」だけです私は。失礼ですが、同じでしょうか。「ふるさとの」の作曲家は、斉藤佳三です。詩は、月夜の晩に小野の木立に聞こえていた笛の音に涙を流した乙女は、生活と子育てに追われた十年後も、同じ笛に涙するだろうかというもの。
 十年(ととせ)経ぬ
 同じ心に
 君泣くや
 母となりても
が、その第三節。
 ナナカマドの女性達は、晩御飯のおかずの心配をしたり育児に神経を遣う時代はとっくに終わり、長閑に、悠揚迫まらざる風情でフルートを吹いていらっしゃるようです。
 平成の、中年増(ちゅうどしま)達はいと
 まあれや、フルート携え今日もつどへり
例会で顔を合わせるたびに、心中私がひそかに唱えている、古歌のもじりです。
 去年の第四回発表会でも、彼女達の音色にしみじみ聴き惚れました。彼女達がこういう会等で完璧に吹けなかったとしても、同情したり勵ましたりはお門違いです。彼女達のからだが、人前で笛を吹くのに慣れていないだけで、心は充分に楽しく高尚なのです。ステージでの彼女達の立ち姿を見るだけで、ジーンとします。彼女達こそ月夜の笛にぼろぼろ涙を流すでしょうし、自分の吹く笛に陶然となってふと、生きていてよかった・・・・
 「フルートの音色は、吹いていて自分が自分で慰められる感じがします」発表会後の彼女達の一人TGさんの感想文の一部です。
 素直な心、素直な言葉です。彼女達に共通しているのは、この素直さです。深尾須磨子の詩を思い出します。
 深尾須磨子の詩「笛吹き女(め)」は、ムラマツ・フルートの創始者孝一氏が回想記の中で紹介していたので御存知の方が多いでしょう。深尾須磨子(1888〜1974)はマルセル・モイーズ(1889〜1984)の弟子で、年齢関係が面白い。いつかラジオで彼女が師のレコードを聴きながら話をしていて、息接ぎの大きな音がしたところで、
 「先生のお側にいるようで、お懐しうございます」と言っていました。
 亡き能管の師、私の一噌幸政全盛期の稽古では、曲の一くさり(一小節8拍)を一息で吹いて行く、吸っては吐く師のその息の音を "まるでふいごのよう" と感銘を受けたものでした。
(1)笛を吹き候
 笛を吹きて悔ゆるに候
 笛を吹きて祈るに候
 笛を吹きて生くるに候
「笛吹き女」の第一節です。全十二節。私の頭の中に、あと三節が入っているだけです。
(4)笛を吹き候
 笛は真(まこと)
 笛は神
 まずをろがまではもの申されぬ
(9)哭きたまえ
 只哭きたまえ
 哭きつかれては笛吹きたまえ
 望みは一管の笛にのみやどり候
(13)りらのかをりを音にこめて
 今宵まゐるは異国ぶりのマドリガルに候
 酔ひたまえ
 異国(とつくに)ぶりの月もをかしきに
候文でありながら、異国ぶりを感じます。
 島崎藤村の詩「六人の處女(をとめ)」では、三人目の "おさよ" が、わが国ぶりの笛を実に二十五小節にわたって吹きます。
 乱れてものに狂いよる
 心を笛の音(ね)に吹かむ
から始まって、
 落つる涙をぬぐひきて
 静かにききね吾笛を
まで、延々と笛が鳴ります。(神保光太郎、中島健蔵『近代絶唱詩集』)しかし、詩だ文学だと言われれば仕方ありませんが、笛が吹けない詩人の笛の歌は、どうも空々しくっていけません。藤村は有名な「椰子の実」の中で、"もとの樹は生いや茂れる 枝はなほ影をやなせる" と椰子の木に枝があったかのように歌っているのも、気になるところ。
 とはいっても彼の「千曲川旅情の歌」にはよく泣かされます。学生時代、夏休みに長野県の親類から何度も小諸に行きました。あの頃、あの年頃、あのあたり、あの夕暮れ。カラスが一羽繋がれて頭上を飛んでいました。
 暮れ行けば浅間も見えず
 歌哀し佐久の草笛
 藤村の笛なら、これに限ります。口ずさむたびに涙腺に渋滞を感じます。思い出せば、ただただ "お懐かしうございます"
その23

初出:ナナカマド短信23号/2006年10月8日

 筒井さんのお陰で、阿佐ヶ谷の大衆酒場、「春日」へたまに行くようになりました。美人のママさんのいるところです。子どもの頃の友人を二三連れて行ったら、
「並みの美形とは、ワケが違う!」が異口同音でした。美形、とは古いもんです。
 日記を見ると、去年は十八回。今年は四月末までに十回。怪我をして七月二十一日に久しぶりに行っています。その後は、去年と同じで月に一二度。都内に用事があった時、時間をやりくりして東村山から出掛けて行きます。目の保養、命の洗濯。ひとはいろいろ言います。要するに、フルートが毎日吹きたくなるのと同じで、毎月行きたくなると言ったところです。心臓の鼓動が勝手に早くなります。ヨワイ七十。他意はありません。

 去年五月九日に行った時、御夫婦に「足利の藤」を見に行くよう強く勧められました。前日に御二人で行ってきたそうです。東京で藤と言えば亀戸天神が有名で、「二三度行ったけど」といったら、ご亭主が、
 「あそこが保育園の庭としたら、東京ドームですか。とにかく凄い! 白い房のトンネルに入った時なんか、あまりの素晴らしさに、思わず横にいた女房の手を握りしめました」
 これは! いったい、何んでしょう!!
 ヨワイ六十の、日本人亭主のせりふでしょうか。囲碁の「駄目押し」「勝ちました」の一手。「止どめ」でしょうか。とにかく次の日、間違ってもお互い手を握らない女房と、疑心、暗鬼を生ずで足利へ出掛けました。
 以下「足利の藤」について、縷々述べません。ふぐ食わぬ人には言わじふぐの味です。
 行って、見て下さい。毎年五月初めです。
 藤の後、女房の言うまま「足利学校」へタクシーを走らせました。私は、藤はともかく学校に興味はありません。女房は、テレビドラマの日本史が好きで、行く前から「学校」を予定していたようです。(白い花に感動したからって、そんな女房の手が握れます?)
 戦争中、私のうちは栃木県に疎開していました。あの辺一帯を「毛野(ケヌ)」と言います。足利は栃木県ですが、すぐ左というか西は群馬県です。タクシーの窓から「毛野郵便局」の文字が見えました。
 群馬県をカミツケノ(上のケヌ)国、栃木県はシモツケノ国です。歌があります。
 カミツケヌ アソノマソムラ カキムダキ
 ヌレドアカヌヲ アドカアガセン
 びっしり生えた身の丈より高い麻を、両の手足を広げて掻き抱くように好きな男を抱いて、何度寝ても全く飽きない! おらあいったい、どうしたらよかんべえ。
 『万葉集』読み人知らずの歌です。
 高校時代、友人から教わった途端、戦争のお陰で言葉も麻の畑も知っていたので、この歌がぴたり、心の中の位置を決めました。
 「足利学校」は、小野の篁(たかむら)が創立したという説が江戸時代にあったそうで、脇の床の間に木像の彼がちょこんと座っていたのでびっくりしました。平安時代初期の学者で、罪を得て隠岐に流されるとき、
 わだのはら 八十嶋(やそしま)かけて
 漕出ぬと・・・・と意気軒昂に歌った人です。床の間の畳の涼しい雰囲気の中で、しばらくあぐらで対座しました。学校で習っただけでも、小野さんは何人かいます。
 「日出づるところの天子・・・・」の手紙を中国へ届けた妹子(いもこ)を初めとして、この篁、柳に蛙の道風(とうふう)、美人の代名詞になった小町。その他名前しか知らないお通(つう)、老(おゆ)、岑守等々。

 安田さんが比叡平に別荘をお持ちの時、何度か泊めて頂きました。関西の人達と合奏をしましたし、そこを拠点に京の町を独りうろつきました。二十年以上前のことです。
 或る夏の真っ昼間、小野というところを歩いているのに気づき、先にあげた小野さん達を漠然と思い出しました。みんなこの辺がふるさとだったなと。いい加減なものです。京都のあの暑さ。他に何の感慨もわきません。それが、汗を拭いて立ち停まって、ふと、三木露風の詩を思い出し、思わずあたりの木立を眺めました。あゝ、彼も・・・・
 ふるさとの
 小野の木立の
 笛の音の うるむ月夜や

 こんどこの話を書くので、念のため初めて露風の"ふるさと"に当たりました。 あにはからんや でした。

その22

初出:ナナカマド短信22号/2006年7月9日

 科学的、合理的はもとより、経済的感覚において少し劣っていると自覚しているので、或る時郵便局のお姉さんに、小声で、
 「どんな無理をしても百万円、なんとか作って持ってらっしゃい! 最後よ!」と言われて、言葉の鋭さにたじたじとなりました。後ろに、他のお客が列を作っていました。
 生命保険を解約して、こっちはこっちのお姉さんに、大声で、
 「もったいない! どういう了見なの!」と真顔で怒られました。対女性感覚では、子どもの頃から優れていると思っていました。どっちか、では程度の差こそあれ損はしていませんでした。 女房以外の女性に関しては、すべて判断に誤りはなかったと思っています。
 ところが、「最後よ!」の一言に迫力があって、少々うろたえました。優れていたのでなく、劣っていたのだったか! 郵便、保険の両お姉さんととも、まだ何もしていないのが頼みでしたが、 あれは甘かった。いつか口頭ででも一線を画しておくべきだった・・・・少し大袈裟ですか。
 あとで知った事ですが、当時の定期預金の利率は年六分でした。それが翌年度から変わったのです。
お陰で十年後、今のプラチナメッキのフルート八十八万円を手に入れる事が出来たのです。当然あちこちで吹聴していたら、またまた仲良しになったヤキトリ屋のお姉さんに、笑われてしまいました。
 「あたしなんか、二百万よ。近々通帳を替えなくっちゃあ。四百万よお!」
 一千万なら二千万。一億なら二億。上を見たらキリがありません。皆んな黙っているなと気がつきました。嘘をついているな、と。
 それで、プラチナメッキを買ったのです。親に買って貰ったの、女房をくどいたのと甘ったれた事(これも嘘か?)を言っている手合とはわけが違います。
 私のフルートと言えば、最初、ガールフレンドに五千円借りて、一万五千円のタネ・フルートを買いました。ほぼ四年。これを吹きました。次いで昭和三十五年(一九六〇年)頃、 やっと貯めた十一万円で、ニセの中古のヘインズを掴まされました。それで四十年。
 先輩が、出どこが同じセルマーを売りに出したら、買いに来たひとが、呆れて教えてくれたそうです。
 「シロートが手を加えたこんな楽器は、一文の値打も無いんですよ」と。
 人間万事塞翁が馬で、ニセモノを掴まされた私は、一噌幸政というホンモノの笛吹きに回り合いました。能管の師でした。フルートのレッスンをしながら、師事して三十年。 笛吹きの風貌姿勢を見習いました。一昨年他界されましたが、私の一生の幸福でした。
 ヘインズの歌口は、よく見ると削り変えて頭部管に斜めにつけられていました。合奏団の田口さんに新しいヘインズの頭部管を譲って貰った時、ニセのを靴の踵で踏んづけたら案外に堅く、 金槌の加勢が必要でした。付け加えられていたEメカは、いつも具合が悪いのでサンキョーの久蔵さんに元へ戻して貰いました。一文の値打の無いのが十一万です。大卒の初任給は当時、一万二千円でした。
 指先が器用なだけのフルートの教師が、カネカネで、素直なだけが取柄の無知な生徒を騙していたようです。
 その頃、新宿のムラマツ楽器店の店先で、外国製のフルートの音程が上がらないので、頭部管を切るの切らないのと言っているのを傍で、楽譜を探しながら聞いていた時、 店の若い人が、少しいらいらした様子で言った言葉は、三十年後の現在も忘れません。
 「これはこれで、一本のフルートなんです。自分の子どもの脚が少し長いからって、脚、切ります?」
その21

初出:ナナカマド短信21号/2006年4月2日

 この三月で、七十歳になりました。フルートは五十年です。
 二十歳の誕生日にフルートを買って、五千円貸してくれたクラスの女性が近江へ旅行するというので、東京駅の東海道線のホームへ買ったばかりのフルートを見せるべく駆けつけました。新幹線もケイタイもない頃です。東京駅は勝手知らずで、上がったり下がったり、焦って走りました。貧乏人同士の周知の恋人は別で、小柄で知的に美しいお金持が、乗車口に立って待っていて下さいました。フルートを小脇にあの時、夢もプラットホームを駆け回っていたのでしょうか。
 買ったのは、一万五千円の洋銀製のタネ。他にも製作所があるとか、頭部管だけ銀や、総銀製があるなんて知らず、お茶の水の坂の途中の楽器店に並んでいた一本に見惚れて、これだと思っていました。毎晩九時五分、ラジオの大正製薬「今日のニュースから」のテーマ音楽、バッハのロ短調組曲のポロネーズの冒頭部分にはまっていました。おんぼろラジオに耳をつけて、「落語とクラシック音楽を聴かない奴は、人間じゃねえ!」と息巻いていた時代です。
 最初は兄の友人に、フランスの教則本を借りたり、何かと面倒をみて貰いました。彼は芸大の生徒についていて、早口のドレミで名曲のさわりを歌いながら、指を動かして見せてくれたので、格好いい! と思っていました。芸大の卒業演奏会が日比谷公会堂であって行ったら、フルートは二人で、私の大師匠に当たる青木さんは、モーツァルトの協奏曲ニ長調を吹きました。私もいずれ、と嬉しく聴いたのですが、くだんの私の師匠は初心のうちに罷めてしまい、あの指はウソ、出鱈目だったと気がついたら、索然でした。
 私の生家は寺で、卒業した近くの新制中学の別のクラスがある夏、本堂でクラス会をやりました。卒業後何年めでしたか。本堂の襖を開け放っていたので、遠くから眺めていると、パンヤと呼んでいたパン屋の息子が立ち上がり、下を向いてフルートを吹いたので、あや! と思いました。咲き乱れるコスモスの向こう、「アルルの女のメヌエット」が、本堂の囲りの蝉の声と同じくらいの音で聞こえて来ました。下を向いたのは、低いテーブルに譜面を置いたためでした。 
 パンヤは運のいい奴で、ムラマツフルートが一万本記念の祝いを上野精養軒でやった時行って、その一万本目のフルートを籤で引き当てました。後日パン屋へ見に行ったら、横の勝手口で見せてくれました。フルート界の事情を少し話してくれただけで、触らせてはくれませんでした。以後、パンヤとは音信不通です。
 私のタネは失礼にも、わりに鳴るなんて言われていましたが、気に入っていました。
 しかし、いま吹いている別の少し高級のフルート、これを引っくり返してもタンポにトーンホールの丸い跡が殆どついていません。その頃のは、跡どころか、凹んでタバコのヤニの茶色い輪がついていて、それがよく切れました。  音が出なくなるので、フィッシュスキンというタンポの表皮を張り替えます。教えられた通り薬局へ行くと、店員がニコリともしないで一箱くれました。帰って箱を開けて、一人赤い顔をしました。よくよく見知った形でしたが、シャリシャリなので、一枚二枚と数えるべきか、製品なので一部二部か。はたまた使用時の形態からすれば一本二本か。とにかく一ダース。フルートのタンポ用には、丁寧に鋏みで切り開けば、さし当たって必要なのは一枚のみ。
 奥方が美人と評判の先輩が、じゃあ貰っていくよと、残り全部を持って行って翌日、 「お湯を使ったけど、ゴムに比べて手間ひまかかったなあ」と不満顔でした。
 奥方が夜、気がせくまま私の事を、ったく気が利かない奴め、と舌打ちしている図を想像したら、またまた顔が赤くなりました。

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