小野田三郎    続  話』

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更新2006.3.12

その20

初出:ナナカマド短信20号/2006年1月29日

 暮れの廿日過ぎ、外出ついでのお昼に、神楽坂の「志満金」へ久しぶりに行きました。坂の登り口左にあるうなぎ屋です。
 若い頃、あの辺りに仕事場があって、或る時友人と「志摩金のうな重を一週間毎晩食べさせる」という賭をして、勝ちました。中身よりずっと高価な漆の重箱が、毎晩私の許へ届きました。
 あの頃、うな重は幾らだったか。レジの、私同様充分古びたおじさんに懐しげに聞いたら、素っ気ない返事が返ってきました。
「生まれてません」
 『桜を斬る』は、五味康祐の小説だと言ったら、若い友人は、違う、賭けてもいい、と言い張ったのです。美しい小説なので、大学で専門が美学だった彼は、何か勘違いがあったのでしょう。私の好きな小説の一つで、その少し前にも何回めかを読んでいました。
 「志摩金が一週間」ですから、ずるいようですが、自信無さそうに言いました。
 「読んだの昔だからなあ、まあいいか・・・・」
 桑名紀八郎という男が、橋の欄干から川へ飛び込みながら、居合抜きの訓練をします。最初は刀を抜くだけで、水に落ちてしまいます。居合抜きといっても、抜いた刀を鞘に戻すのが難しい事ぐらい、私にも判ります。二年後、土手で見ていた恋人は、水に落ちる彼の回りに稲妻が、二度閃めくのを見たそうです。二度、出し入れが出来たのです。
 後に、将軍家光の前で鳴っている笛を彼が斬ったら、笛は、メロディーを一節歌ってから、眞っ二つになったという話もあります。
 この紀八郎が、油下清十郎という男と試合をして、負けます。清十郎の訓練は、書いていないのがミソです。二人で、江戸城吹上御殿の庭の桜を、衆目の中で斬ります。美しい勝負なので、原文おんぶで紹介しましょう。
 紀八郎が「桜の下へ歩み寄って、しずかに立停った・・・・一瞬白い虹が桜に懸ったと見る間に、爛漫の花をつけた桜が、紀八郎の足許へ落ちた・・・・花一つ散らない。一同、あらためてその美技に酔うが如くであった」
 ついで清十郎は「ゆるく一枝を斬った。枝は音もなく落ちた・・・・枝を拾い上げて、ゆっくりこちらへ歩み出した。二三歩来た時、一斉に、泣くが如く降るが如く全木の花びらはハラハラと散った??」
 フルートの訓練を、勿論私は考えているのですが、話がうますぎて混乱しました。
 弓矢の名人を志した紀昌という男は、師に言われて、目ばたきをしない訓練をします。
 中島敦(あつし)の『名人伝』です。
 彼は、女房がやっているはた織り機の下に仰向けに寝て、パチクリをしません。二年もすると、パチクリをしないまつ毛の間に、小さなクモが巣を張ります。次に、シラミをかみの毛で窓に吊るして、じっと見詰めます。死んだシラミを替えながら三年もすると、シラミが馬の大きさに見えてきます。或る日、野原の向こうからやってくる師を殺そうと、矢を射ます。師も察して同時に矢を放つと、矢は中間点で正面衝突して地に落ちます。師は、山上のよぼよぼの老人を紹介します。
 山上で、紀昌は得意げに五羽の渡り鳥をいっぺんに射落として見せると、老人は、折りから天空高く飛ぶゴマ粒のようなトンビを、弓矢を使わずに射落として言います。
 「お若いの、射の射はまあまあだが、不射の射は知らんな」
 紀昌は老人の許で、九年間訓練します。油下清十郎の場合と同じで、訓練の内容は判りません。山を降りた紀昌は、それから四十年の間、射に関して一切口にしません。弓矢を手にすることもありませんでした。
 そして最後。死ぬ一二年前。たまたま知人が弓矢を見せると、言ったそうです。
 「見た事はあるようだが、はて、何んでしたかな。どうやって使うものでしたか」
 以後しばらく、都邯鄲(かんたん)では、画家は絵筆を隠し、楽人は弦を絶ち、大工は道具を使うのを恥じたそうです。
 吹かぬ笛を吹く。不吹の吹。たまたま知人にフルートを見せられて、私も言ってみたいものです。
 「それって、えーと、何んだっけ」

その19

初出:ナナカマド短信19号/2005年10月2日

 今年は春から頗る楽しい。プロ野球の憎っくきチームが弱っちくて、ついに一度も勝率五割に達しないまま終わりました。ビールが毎日美味しくてかないません。
 六十年前、つまり第二次世界大戦の後、疎開先の栃木県益子(ましこ)から帰って来てクラスの野球チーム、ブラック・タイガースのサードをやらされていました。小学校五年の、食糧事情の悪い頃です。
 ある日の試合でピッチャーが調子を崩し、無死満塁で替わった私が、バッタ、バッタと三者三振に切って取りました。次の日から私の栃木弁に対するクスクス笑いが消え、空が高くなったような気がしました。四番ピッチャーが定着し、野球に拍車がかかりました。日曜に早朝抜け出し、友達に貰ったコッペパン半分で三試合投げたりしました。親の目が怖い、そういう家庭、そういう時代でした。
 中学一年の時に、隣り町の格上の「チガール」というチームに引き抜かれました。ロシア語で「虎」です。あの頃あれだけやったんだから上手いのは当り前、といった気持が根づいてしまい、少々の栄光や賛辞には感激しなくなって行きました。
 このあいだ、高校時代のクラスの仲間七人と、新宿でメシを食いました。何年かに一度食っています。決まって話に出るのが、ソフトボールの試合で校舎の屋根にぶつけたのは後にも先にも私だけという話です。七人皆んな上手かったのですが、特にそのうち二人が私同様足が速く、よく打ちました。三人が野球部に入っていれば、うちらも甲子園に行けたと、意見は一致しました。甲子園に行けばプロに認め・・・・そんなことより、或る日、猛烈なライナをピッチャーの私が逆シングルで捕ったら、観ていたクラスの、全校男子憧れの純子さんが赤いカーディガンを翻してピョンと跳ね、 「すっごーい!」と叫ぶと手をパチパチと叩きました・・・・この話、六人の誰れもが憶えていませんでした。
 去年、五十年ぶりに大学時代の恋人に会ったら、最初に隣りのクラスと親善野球をやったとき、ピンチで私が替わって、あと皆んな三振にしたのでグッと来た、と言っていました。小学校のデビュー戦と同じですが、ピッチャーをやっていると、この手の栄光は限りありません。試合は憶えていましたが、三振は全く忘れていました。
「知らなかったでしょうけど、あれで、酷い重傷だったのよ」やれバッハだモーツァルトだ、梶井基次郎だ小林秀雄だと、口先ばかりやくたいもない事を言っていた時代です。私が、幼くして愛を知らず、でしたか。
 最後に野球をやったのは、五十才の時でした。草ラグビーに熱中していた頃で、よその野球チームが創部十周年記念に、西武球場を借り切って家族とも六七十人で遊ぶけど、一人三千円出せば入れてやる、と言って来ました。五六人で入れて貰いました。ドームになる前の、人工芝の緑が目にしみるような春の晴れた一日。いくつかのチームに分かれ、ソフトと軟式で広いグランドのあちこちで一人三試合、キャッキャと楽しみました。
 三時頃終わって、内野スタンドの前で表彰式がありました。少年の部で、すばしこそうな男の子が盛大な拍手の中で商品を貰って照れていました。私たちは部外者だからと脇に寄って眺めていました。
 「つぎー、成年の部に移りまーす。最優秀選手・・・・」と若い女性が声を張り上げると、なんと、私の名前を読み上げました。
 「ありゃ、くれるんだ」と急いで出て行くと大きな箱をくれたので、お辞儀をしたら拍手が鳴りました。
 「つぎー、ホームラン王・・・・」結論を急ぐとこれも私で、打撃王、盗塁王もでした。あと何王があったか忘れました。行ったり来たりのペコペコで、少年同様大いに照れました。不特定多数の拍手喝采が好きな人が多いようですが、私は気恥かしくていけません。
 スポーツに熱中し、とことん汗を出した後の陶酔感に浸っていると、「これでも一生」とよく思われました。「野生動物の陶酔」とも考えたりしました。いつでしたか、フルートの生徒のお母さんとお喋りをしていたら、テニスにハマっているそうで、「汗をかいた後のあの感じ、やった人じゃなきゃ判んないわよ」と言ったので、思わず日焼けしてくっきりした顔を見ました。瞬間、母を選べるなら、と感じました。
 いままた、野生動物の陶酔を秘かに狙っています。走ればいいのは判っていますが、右脚が痛んだままなのです。居ながらにして野生に戻るには、呼吸法しかないでしょう。フルートを吹いているぐらいですから、吹く事に集中しやすいタチです。究極は、呼吸法だろうと思っています。
 以前、一年間ヨーガの教室に通いました。ヨーガでは、呼吸は肛門でやれと教えます。若い美しい女性が大声で、「肛門から息を吐いて!」と号令をかけます。天台の『摩訶止観』では、息の出入は「へそをもって限りとなす」まだ始めてもいないのに、すでにこんな事まで識っているのです。ダメだなあ、と思います。コッペパン半分で三試合の頃は、何も識らずに夢中でした。

その18

初出:ナナカマド短信18号/2005年7月3日

 雨が好きです。特にいまの梅雨時のひややかな雨には、これが無かったら暑くて敵わないと思うと感謝の気持さえ湧いて来ます。中島みゆきさん程ひねくれていませんが、あーめが好きです あーした天気になれー と、彼女の歌を歌いたくなります。
 春雨にはよろしく書を読むべし
 夏雨にはよろしく碁を打つべし
 秋雨にはよろしく笛を吹くべし
 冬雨にはよろしく酒を飲むべし
 1700年頃の中国の張潮という人に『幽夢影』があります。(中国古典新書。合山究訳)その第八六条、春雨宜読書 夏雨宜奕棋・・・・が原文です。奕棋(えきき)は現代の囲碁です。問題は、次の、秋雨宜検蔵の、検蔵(けんぞう)です。私は「笛を吹く」としましたが、訳者の合山はこう書きます。
 「倉しらべ、財産しらべのことか。または、朱子学や陽明学でいう自己修養の一つ、『斂蔵』のことか。全くわからないが、一応前者の意で訳しておく。博雅のご示教を俟つ」そして、「秋雨のふる日には財産しらべをするがいい」と訳しています。
 「検蔵」か「斂蔵(れんぞう)」か。博雅じゃありませんが、土俵下から物言いです。
『幽夢影』の179条で張潮は、昔の人の言葉として『十年読書、十年遊山』を挙げ、それに並べて「十年検蔵」を出し、流石に変に思ったか「十年の財産しらべは長すぎる。二三年でいい」と書いています。笑っちゃうでしょう。  読書遊山に明け暮れていて、どうして調べるのに十年もかかる財産を蓄えられるのか。二三年だって長すぎます。二三日だって長すぎる。私なら一目です。(最初から持っている奴はこの際土俵にあげません)八六条で、書だ碁だ酒だと言いながら、どうして財産しらべなんて言い出すのか。そもそもその神経が、不思議です。
合山が書いている朱子学や陽明学で言う、自己修養の一つ「斂蔵」は漢和辞典に「取りこみおくこと」とだけあります。
 斂と似たような意味の「治」の項に、斂は治と違って、「じっと集めおさめること、引きあつめしめよする意あり」とあります。
 それで自己修養の一つが斂蔵と来れば、秋の雨の日は、得意わざをじっくり取りこみ集めおさめるべく訓練修業すべし、と言って差し支えないでしょう。何処かで誰れかが斂と検を書き間違えたようです。
 フルートを吹いて何十年の修業中の私達は冒頭の第三句の通り、秋雨にはよろしく笛を吹くべし、と言いましょう。
 さて、この「春雨には」といったような名文句を、アフォリズム、箴言(しんげん)、警句、等々と言います。それで己れを律することはありません。頭の片隅の小さな穴ぼこにポイ捨てです。言った人と、時空を超えて人の世に一緒に生きているなと嬉しがれれば幸いです。忘れたらそれまで。何かの折にアフォリズムは穴ぼこから出て来て、味方してくれます。
 いつか、鉄斉展へ行ったと書きました。あそこに『三国志演義』の関羽が読書している図(伏魔大帝関雲長読書像)があって、その賛で「世に勧める箴言」を読みました。
 好人に做(なら)い、好事を行い、好書を読み、好話を説(と)け
 強く正しい人にはどうもいじけます。
 どうせあたしなんか、いいんです。浅学非才、好話なんか説けません。どうせあたしなんか、フルートばかり吹いている十五人だけが相手。世間じゃ、あたしのことなんか知っちゃいません。どうせ・・・・
 卑屈の方に気を取られて、そいつに気付くのが遅れました。穴ぼこから出て来て、傍にいたのです。味方も味方、生涯頼りにしている強力なやつです。思わず呟きました。
 人知らずして慍(いきどお)らず また君子ならずや

その17

初出:ナナカマド短信17号/2005年4月3日

 (前回の続き)
 能管の一噌幸政先生が、暮れの二十九日に亡くなりました。肝炎が発病してほぼ十年。誰れもが、先生の生命力の強さに感動していました。主治医が、「強い、としか言いようが無い」と言ったそうです。享年七十五歳。
 幸政先生に亡くなられて、張り合いを失いました。全盛期の先生の笛の音色に惚れに惚れて、師事して三十何年。姉弟子の一人が、賀状がわりに一言、「沢山の楽しさを頂きましたね」とハガキをくれました。
 初めて能の『道成寺』を観に行った時、始まる前、揚幕の向こうから聞こえてきた笛の「調べ」の華やかなのに驚きました。勿論笛は幸政先生。「調べ」は、譜はありますが舞台では吹きません。小手調べです。
 直後の稽古の時に、お伺いすると、
 「前にも聞かれたことがありますが、いつもと同じに吹いているだけなんですよ」
 金剛流の『雪』の最後。雪の精が舞い終わると、芸の力でしょうか、いつしか松一本の背景が、山中、白ガイガイになっています。
 シテが残心を見せて静止し、梢の雪がチラリ、またチラリチラリと落ちるのが見えるような明るい静けさの中で、幸政先生の、トメの後の高い日吉(ひしぎ)が鳴りました。「終わりましたよー」の合図の笛です。
 ヒーヤーア ヒー
 洋楽で言えば、ピアニシッシモ。高く、細く、透き徹った、美しくも芯だけの音。
 例によって稽古の時伺うと、
 「力まかせじゃ、ぶち毀しですから」とのこと。ちなみに、日吉を力まかせでも出し損う手合を、陰でヒーヤースーと言います。
 初心の頃はよく甘ったれた気分で、思えば恥ずかしいことをお伺いしたものです。
 「銕之丞(てつのじょう)先生の仕舞を見ましたけど、うまいもんですね」
 「そ、そ、そりゃ、そうです。そ、そ、そりゃ・・・・」慌てさせてしまったようでした。
 「小野さんの笛は、いいですね」
 「天性でしょうね」こちらの判断の当否がすぐ判明します。小野さんという姉弟子は、唇のつくりが外からフルートと同じに見える、艶のあるいい音の奥様です。
 笛の弟子はたいてい他の楽器、鼓や太鼓、或いは謡曲を習っています。つまり師匠掛け持なので遠慮があるのでしょう。私は笛一本です。「気が措けなくていい」と、よく温泉行や紅葉狩りにお供しました。
 いつでしたか、奥多摩にイワナを食べに行ったことがあります。姉弟子二人が同行しました。小菅川か何處か、沢に少し入ったところでイワナを食べました。そこで話が師弟関係に及んだ時、一人ジンを含んでいた私は、アルコールの力を借りて、師の前も憚らず、姉弟子たちにぬけぬけと言いました。
 「ほら、知ってるでしょ。『七騎落』の文句を。ボクなんかあれですよ。?この人々は君のため竜門原上の土に屍を曝すとも惜しかるまじき命かな?って、あれ、あれですよ」
 『七騎落』は、石橋山の合戦に負けて船で落ち延びる頼朝主従の話。五味康祐の『柳生武芸帳』に、柳生宗矩がこの謡曲を口ずさみながら、かつての自分の高弟を斬るところがあります。京都吉田山の神社の境内の、夜のこの場面が好きで、若い頃何度も読んで憶えてしまいました。
 古代から今に至るまで、師弟は、ややもすれば主従に似たり、でしょう。
 「ったく! 自分だけ惚れてるつもりなんだから!!」と、この時ばかりでなく、なにかと顰蹙を買ったものです。 私は十一歳の時と、五十一歳の時に母を失い、こんど六十八歳で師を失くしました。この三ヶ月、ややもすれば母恋に似たりかと、師を思い出すことしきりです。いつまでも甘ったれていたいのです。
 幻聴で、最後に、師の「中之高音(なかのたかね)」が聞こえてくれば、恍惚と死ねます。雰囲気のための短い旋律、憧れの果ての心溶ろける音色です。
 ヒーヒョー ルリー ヒーヒョー イヨー 笛は何十年来師からの借り物で、披露宴が終わり次第返すつもりでした。

その16

初出:ナナカマド短信16号/2005年1月23日

 私も毎日笛を吹いています。トラベルソと言う一鍵の、古代フルートとかバロック・フルートと言われる木の横笛を、毎日野火止用水の林に持って行って吹いています。
 国民年金生活者になって、フルートの教室を失って、トラベルソなら団地生活にいいかと思って買ったのですが、案外に音が出るようになって困りました。
 一年目は部屋に毛布を張りめぐらして、夏なんか汗だくだくでやっていました。それが一度外で吹いたら、その爽やかさに取りつかれ、以後二年間、うちでは吹いていません。
外でならフルートもと思ったんですが、せっかく中古で二十万の楽器、泣きたくなる難しさが少しずつ上手くなる楽しさ。フルートがさっぱり上手くならないのに比べて、唇や指が目に見えて上達します。四十年近くフルートのレッスンをして来たので、練習のやり方、唇の感覚、音の行方が手に取るように判ります。それにしても下手です。
 ナナカマドのお陰で、下手でも何でもみんなの前で曲を吹かなければなりません。頼みは『徒然草』です。中にこういう意味の文句があります。
 ?Tとかく初心のうちは秘かに練習しておいて上手くなったら人前へ出て行こうと考えがちだが、それじゃ駄目なんだ・・・・?U学生時代にこれを読んだので、口惜しくて破裂しそうでも、仕方ありません。
 午前と午后、合計二時間半ぐらい。毎日と言っても生身のからだ、当然吹けない日もあります。去年03年は十日ぐらい。今年は十二月二十七日の今日まで十五日、吹かない日がありました。カレンダーにメモしてあります。今年は歯の手術をしましたし、次女の結婚式があり、披露宴で能管を吹きました。その練習のため一週間、能管を持って林に行きました。「高砂」の登場楽と神舞で、譜は覚えていましたが、唇を能管用にしなければなりません。
 ちなみにトラベルソの歌口は9ミリ×9ミリのほぼ円形。フルートは10×13。能管は14×18。だいたい。
 能管は平成十一年、一九九九年、一噌幸政先生の古稀の祝賀大会で吹いて以来五年ぶりです。あの時は水道橋の宝生(ほうしょう)の能楽堂を二日間借り切って、弟子四十九人が替わる替わる吹きました。不肖私めがトリで、宝生流のシテ方佐野萌(はじめ)先生を煩わし、能「安宅(あたか)」の舞囃子(まいばやし)「宝生流・延年の舞」という難曲を吹きました。
一週間前の申し合わせ(リハーサル)がメタメタで消化不良をおこし、毎日吐き気に悩みました。当日出番前に師に挨拶に行くと、にっこり笑って、「大丈夫ですよ」と一言言って下さいました。私が酷い顔をしていたのでしょう。ゲニアリガタキハ師ノコトバ。それでほっとして、セイカタンデンと言われるあたりに新しい気合いを入れたりしました。本番は後見の師のお陰もあって「別人かと思った」と言われた程の出来。「最初の一吹きで他のひととの違いが判って隣と顔を見合わせたの」と言って下さった方もいました。信頼する友人は電話で「久しぶりに音らしい音を聴いたよ」と言ってくれました。ウマシコトバ。生涯耳から離れないでしょう。後日貰ったたくさんのお褒めの手紙等は、いまも大事にとってあります。
 娘の結婚披露宴では、能楽堂の気合いそのままに吹いたので、特に先方、新郎側は驚き、感動したと評判でした。長年空手をやっているオジさんは、あの気迫は空手道に通じる、感銘を受けましたと、ビールを注いでくれました。笛は何十年来師からの借り物で、披露宴が終わり次第返すつもりでした。

その15

初出:ナナカマド短信15号/2004年10月24日

 「音楽家は一日練習を休むと己れにわかり、二日休むと聴衆にわかると言われ一日たりとも練習は休みません」
 十巻ある『呉清源・21世紀の碁』の第五巻(一九九八年刊)の序文です。「同様に私達囲碁に関わるものは一日たりとも研究を怠ってはなりません」と続きます。
 呉清源(ごせいげん)さんは一九一四年、大正三年生まれです。今年九十一才。八十五才の頃の言です。一日たりとも練習を休みません
 一日も休まずフルートの練習をしているであろうナナカマドの若い仲間達は、そのためか呉清源と言ってもご存知なさそうです。呉さんが日本へ来たのが、昭和三年の秋。
 二十五年経った昭和二十八年、一九五三年に川端康成(故人は敬称略)が箱根仙石原に呉さんを訪ね、三日間、一日三、四時間話を聴いて書いたのが『呉清源棋談』。呉さんの人となりは、これでだいたい判ります。
 もう一つ。佐藤垢石(こうせき)代筆という呉さんの若き日の随筆集『莫愁』(もしゅう)に「印象」と題して川端康成が序文を寄せています。その一節。
 「わずかな交りで私が呉七段から受けた印象を要約すれば、天才であること芸術家であること、叡智の人であることという外はない」

 バッハのソナタは、ペーター・ルーカス・グラーフさんのが私は好きです。彼は指揮者でもあります。
 「また指揮をやるんでしょう?」と聞かれてこう答えています。
 「長年指揮をした経験があれば、いつでも戻るのは簡単です。そう、自転車に乗るのと同じようなものです。楽器演奏の場合は全く異ります。ほんのちょっと休むだけで、すぐにわかってしまう結果を招きます」(『フルーティストとの対話』レーグラ・ミュラー・金昌国訳)
 十六才の時カザルスに、お前さんはフルートを吹くために生まれて来たようなものだから一生懸命練習しろと言われたグラーフさんと、二百年に一人の天才、本因坊秀策の再来といわれた呉さんが同じ事を言っています。
 一日も休まない、は常識のようです。
 それで、一日どのくらい練習するのか。これも気にかかります。本当はそんな事を気にするようではオソマツですが。アルプスで亡くなった加藤恕彦(ひろひこ)は、一日五時間。吹かない時間が。と聞けば、いったい何時間吹いたら神様、お気に召すのでしょうかと、凡俗としては質問したくなります。
 「私は常にレンシュウ」と言っていたチェロのロストロポーヴィッチさんや、「毎日八時間はさらう」と言っていた有名フルーティストを引き合いに出しながら、前記「対話」でグラーフさんは言います。
 「私はどのくらいさらうかわかりません。なぜなら練習している間、時間の感覚がなくなりますので

 前号に、前川義男さんという方の投稿が載りました。中に、フルートクラブの会報時代から拙文は読んでいて下さり、
 「いずれも楽しく新鮮な話題でこちらも元気を貰ってうれしくなります」とありました。
うれしくなりました。こちらも元気を貰って、時間の感覚をなくして笛の練習に励もうと、改めて決心しました。
 この春、二つの富岡鉄斎展へ行きました。大器晩成の人。八十才から続々モノした傑作を観て、案外な元気を憶えました。それと、少し前の新聞記事。西陣織の百一才と九十九才の山口兄弟。兄さんの伊太郎さん。ここ十年風邪もひかず御元気ですねと言われて、
 「あきまへん。九十五六歳がピークどしたな
この京都弁。思い出すと、つい笑ってしまいます。元気をくれる人は多いようです。

その14

初出:ナナカマド短信14号/2004年7月4日

 マスタークラスのレッスンの受講生と聴講生募集のダイレクトメールが、楽器店から来ました。以前公開レッスンと言っていたものより、少し格が上がったようです。
 確か四十年ぐらい前、ジャン・ピエール・ランパルさんが日本に来た時公開レッスンがあって、受講生があちこちトチって和やかな笑い声が会場に流れたなんていう時代がありました。たちまち器用な日本人生徒ですから、先生は言う事が無くなったようでした。
 「コレワ、ワタシノアーティキュレーションデス。押シツケルワケデアリマセン。参考ニシテクダサイ」と通訳を通じて言って、黙々と受講者の楽譜にペンを走らせていた名人もいました。スラーとかスタッカートなんかは初級者の窺い知れない玄妙なものなのです。
 私は仕事柄、殆どの公開レッスンを聞きに行っていました。オーレル・ニコレさんが、モーツァルトは早いトリルが好きじゃなかった、と言っていたのは生涯忘れません。私のトリルは非常に遅い。
 外国の名人ばかりでなく、小山さんがついていた林リリ子先生の公開レッスンにも行きました。恐ろしく早口の先生で、それでソルフェージュ、言ってみれば口三味線ですが、おしまいにトリルをつけたりして、その速くて見事な事、呆っ気に取られました。同じ会場で別の日、ハンス・ペーター・シュミッツさんが講演だったと思いますが、フルートの吹き方の初歩からをやって下さいました。
 「コレワ駅デデンシャヲマッテイルトキレンシューシテクダサイ」と言って、下顎を前後左右に振って見せました。驚く程の大きく激しい動きでした。
 「足ワカタハバ、左アシスコシマエデモ」と繰り返し言っているので気がつきました。シュミッツさんは滞在中に日本のフルート教則本をつぶさに読んだと聞いていました。 そして、実は私はシュミッツさんの講演の少し前、入門してきた女子中学生に大声で痛いところを突かれていました。
 「この絵の通りにやったら、転んじゃいました。この教則本は悪書です!」私が使っていたもので、挿し絵の女性は逆に右足を前に出しています。元々フランスの教則本で、日本でつけた文や絵は見ない方が
 シュミッツさん、見たな、と思いました。
 私が聴いた最後の公開レッスンは、ヴォルフガング・シュルツさんが楽器店の小ホールでやったもので、何年前でしたか。通訳は有名な女流オーボエ奏者だったと思います。
  レッスンはその時、曲から離れて、吹く姿勢や構え方の話になりました。
 「スッタイキガ、フククチビルマデ、イッポンノ空気ノハシラニナリマス」女流オーボエ奏者は、ドイツ語に堪能のようでした。
 「ソレヲ腹筋デササエマス。気柱ヲササエマス。ササエル
 「先生、支える、でいいんですね」と言ったので、みんな思わず右の方を見ました。そしてそこに、日本のフルート吹きなら誰れでも知っている老大家が、椅子をくっつけてステージに凭れるように腰掛けているのを見ました。老大家はこう聞かれて、少し身を乗り出すと、叫ぶように声を発しました。
 「ホジスル! 保持する!」
 鶴の二声でした。
 平成のいま、若い人達は全くうまい。外国名人と同じように吹きます。それもこれも、しかし、辞書を片手にシャカリキになって、「ホジスル、保持する」と追いかけてきた大先輩たちがいたればこそでしょう。

 その老大家も、昨年亡くなりました。雨上がりの斎場で霊柩車を見送ると、顔見知りの楽器店の人が、しみじみ言ってくれました。「みんな、逝っちゃったなあ」

その13

初出:ナナカマド短信13号/2004年4月4日

 ダブルタンギングで思い出しました。デンマークのフルート奏者カール・ヨアヒム・アンデルセンは、フルートの真のスタッカートはシングルタンギングであるべきだと主張してダブルでは吹かず、シングルの猛烈な練習で舌の先を痛めて、ついにフルートが吹けなくなったそうです。1840年生まれ、1909年没です。
 彼は新式のベームフルートが出来ても頑として旧式を吹いていました。同じように新式を拒否した人達で私達が知っているのではケーラー、ドップラー、チューロー、チアルディ等がいます。現在のベームフルートはベートーベン以後です。拒否したくても新式が出来ていなかった頃の名人達、おなじみのルイエ、オットテール、クヮンツ、ブラーベ、ベルビギエ、クーラウ
 デンマークには、もう一人アンデルセンがいます。カール・ヨアヒムなんか比べものにならない程有名で、平和時なら、世界中の子どもたちが読んでいる筈の童話の作者、ハンス・クリスチャンです。アンデルセンの綴りは同じです。こちらは1805年から1875年でヨアヒムより35才年長です。
 三ッ木さんの翻訳が終わって667ページもの大部の本になった時、私は自分用に、出て来た人名の索引を作りました。38年前の事です。フルートとビオラのソナタを作ったアーデヴォルから、不死鳥の鳴き声の笛を作らせた中国のワンティ皇帝まで1,475人。ヨアヒム・アンデルセンはこの本の八ヶ所に出てきます。同時代のドップラー、ブリチアルディ、タファネル等と同じ名人だった事が知れます。「フルート曲、特にエチュードで有名」という彼への形容句もあります。
 彼がパリのコンセルバトワールのタファネルの教室を訪れた時、たまたま彼のエチュードのレッスンを受けていた生徒の演奏があまりに素晴らしかったので、思わず「私の曲がこんなに美しく響くとは知らなかった!」と叫んだそうです。そのとき吹いていた生徒の名前が、マルセル・モイーズ。(この話は、どこかに紹介してあげた記憶があります)

 この本は、いわば三ッ木さんの畢生の大翻訳と言えるでしょう。こなれた日本文もさることながら、該博な知識と語学力による綿密な訳者注がありがたいものです。お陰でずいぶんあちこちで知ったかぶりが出来ました。
昔のフルートクラブの会報130号に、三ッ木さんの?T『私のフルート百科』の翻訳を終えて?Uがあります。改めて、御苦労やらいろいろ内情が知れて面白く読みました。
 偶然でしょうか、私が今回書くきっかけとなったのはOさんの『ローザンヌ便り』から笠井さんのダブルタンギングですが、その笠井さんの「J.S.バッハのパルティータについて」という堂々たる論文がこの130号に載っています。さらに驚いたことに私が?Tみなさん、ロレンツォ流に知っている笛の話を集めましょうよ、私はこんな話を知っていますよ?Uとちょこっと中国の笛の話を書いて、笛の会の会報だから「笛の話」と言うのは無駄、「話」とだけ題して

 最近フルートのアンデルセンを、アンダーソンといっている人がよくいます。そういう人はきまって童話なんか読んだ事がないという顔をしているので、にやにやしてしまいます。シリンクスをシランクスと言ったり
 綴りから言ってもアンダーソンは、トスカニーニに「百年に一度の声」といわれたアルトのマリアンに限らせて貰いたいものです。


その12

初出:ナナカマド短信12号/2004年1月25日

 Oさんが「ローザンヌ便り」で、スイスの音楽事情、特にオペラに関していろいろ教えて下さいました。オペラは全く門外漢の私ですが、すっきりした文章のお陰か、毎回ずいぶん楽しみました。「リゴレット」を観終わった人達が夜の闇に散って行った方角から「女心の歌」の口笛が聞こえて来た、というくだりは、耳に聞こえ目に見えるようで心に残っています。
 食べる事では、ラクレット、シュークルート、クスクスのどれかが時々食べられれば日本食は恋しくならないという事でした。私はうなぎが好きで?T三日に一度は食べたいな、食べる事が出来たら?Uなんて言う手合と同じで、西洋料理はオペラみたいなものです。お食べになったものに関しても、たくさん書いてくださると幸いだったか、と考えています。
 メルシェ城の二階の広間でのフルートの音楽会の紹介に、?Tコンサートには
 ジャック・プレベール。わが青春のバイブル、映画「天井桟敷の人々」のシナリオを書いた詩人。主人公バチストが言います。
 「夢も現実も同じだ。でなきゃ、生きている甲斐がない!」高校以来、十何回見ました。いまはビデオを持っています。

 野火止用水の回りの林が、トラベルソを吹く?Tいつもの場所?Uです。このあいだ、犬を連れた年輩の男のひとが言ってくれました。

 「林で笛の音がするなんて、いいなあ。ここを通るの、いつも楽しみだよ。その笛、なんて言うの、芯のあるいい音だねぇ」
 夢と現実ごちゃまぜの、柴又生まれのもう一人の男の口真似がしたくなりました。
 「芯があるなんざぁ、あんたさしずめインテリだな」

 スイスから戻られて、これは「便り」にならなかったのですが、バーゼルにいる笠井潔さんの消息をちらりと聞かせてくださいました。学園紛争の頃抜け出していって、モイーズに可愛がられたひとです。いまや向こうのフルート界で、エライと言うよりコワイ存在になっているそうです。
 ランパルが初めて日本に来た頃、笠井さんが大学のオケで吹いていた頃、私が結婚したての頃、奥好寛先生に一緒についていた頃、道端か、高円寺の駅か、たまたま彼に出会って自慢されてしまいました。
 日比谷公会堂のオケのリハーサルの時、遊びで、フルートばかり五六人が、「レオノーレ・第三番」の例の低音Dから、ダブル・タンギングでレミファソラシドレミファと上がって行くところ、誰れのが公会堂の最後列の席で聞こえるか、競ったそうです。
 「ぼくの、だけでした」
 低音域のダブルで苦労する時、この?Tぼくの、だけでした?Uを必ず思い出します。このところ落葉散り敷く明るい林、あたりに人影が無ければ、「ちくしょう!」と叫んだりしています。


その11

初出:ナナカマド短信11号/2003年10月19日

 9月27日土曜2時 ルーテル市ヶ谷センター 合奏団第11回定期演奏会。
 第一部 全員合奏 指揮安藤広志 サラバンド・ドビュッシー、弦楽四重奏曲ハ短調・ブルックナー トリオソナタ・ホ短調・Eバッハ 第一フルート田口敏、第二フルート福田よしゑ、ピアノ山際伸枝 タンゴ(四パート八人のフルートとピアノ) 夜明、ドナウ河の漣
 第二部 全員合奏 指揮菅井源太郎 交響曲ハフナー・モーツァルト、ロザムンデ序曲・シューベルト (団員二十二名)

 当日、中央線の工事でやや遅れていくと、すでにブルックナーの途中で、曲が終わって席を探すと、最前列に空席がありました。
 座るとすぐトリオソナタが始まりました。二人とも金のフルート。セカンドが先に出ます。福田さんの好もしい幅の、ふくよかな音色に聴き惚れて、コンサートマスター田口さんや如何にと見やると、彼もちらりと福田さんの方を見てから、悠然と前の客席に目を向けました。そこに、私が座っていました。目と目が合いました。彼我の年齢差は二十。思わず彼は初々しくニコッとすると、上体をわずかに傾けて会釈をしてくれました。
 思い出すと、「演奏中に客に会釈するのアリ?」と聞きたくなります。
 この少し前7月13日、私達の発表会に、彼は指揮者の安藤さんと連れだって聴きに来てくれました。(安藤さんは、合奏団の第五回演奏会で、若指揮者としてデビューしました。フルートクラブ会報238号の巻頭で「指揮棒の事始め」と題して、その時の心境を書いています。素直ないい文章だなと、また改めて感銘を受けたところです。安藤さんとはしかし、田口さんと話もあるし、発表会の真っ最中なのでロクに挨拶もしませんでした。)
 田口さんとはピアニストの山際さんが、彼が付き合って最近、アルテス三巻を終了したこと(これが凄い!)等々‥‥、久しぶりなので喋りました。打ち上げで一緒に飲んでいかないかと誘ったら遠いから帰ると別れて、それでこんどのステージで、上と下でパッと目が合ったというわけです。まあ情状酌量、会釈するのアリ、でしょう。休憩の時、「上手いもんだなあ」と讃えると、「楽器がいいんです」という返事でした。

 全部の曲に対する印象批評は控えます。田口さんと吹いた福田さんの指。トリル、ターン、ダブルタンギングで急上昇する時等、細かく目近かに見ていて、山際さんやいつかドップラーを吹いた井原さん等‥‥上手な女性がたくさんいるんだと感心しました。
 田口さんやこういう人達と、他の千差万別の技術を持った人達相手に指揮するご苦労が思われました。音程はともかく、音色やニュアンスをどう纏めてゆくか。独奏団に属していても、この辺りを肴に菅井さんと一杯飲めば相当勉強に‥‥彼は下戸でしたか。
 古いフルートクラブの会報を見ると、合奏団は1983年11月13日、29人が集まって始まりました。名簿上は46人。
 指揮者と練習場があればいいわけで、指揮を菅井さんにお願いし、練習場は毎日新聞社の矢羽資永さんに面倒を見て頂きました。私は現在独奏団に属していますが、合奏団の設立にも少し関係したので、二十年かと思うと、やや情緒が揺れます。
 新聞社の地下室で初対面の28人が恐る恐るフルートを吹いていると、突然女性が一人すっくと立ち上がって叫びました。
 「みんな、しっかり吹きなさい! せっかく菅井さんが振ってくれてるのに!!」
 二十年後のいま、それは、裂帛の気合、といった感じで思い出されます。山際さんでした。以後当然ながら、彼女には誰れ一人頭が上がりません。しかも、合奏団史今後百年続くとも、つねに第一等に特筆されるのは、その山際さんが、御宅を合奏団の練習場に改築して下さった事です。ハタで聞いても、涙が出そうです。あの気合の持続!! これは文字通り有難いこと、希有のことです。
 トシクッテ、私も涙もろくなった上にオセッカイになったようです。最後に他人事と識りつつ書いてしまいます。
 合奏団諸君! ナニハトモアレ山際伸枝サンヲアガメタテマツルベシ ウヤマウベシ カヘスガヘスモコノコト 肝要ナリ

その10

初出:ナナカマド短信10号/2003年7月6日

 九十三才でなくなった親父の七回忌と七十一才で逝った母親の十七回忌の追善法要を、六月にまとめてやるという案内が来ました。
 学生時代、たまに歌舞伎座で芝居を見ました。てっぺんの立見席から境を跨いで降りると、あとは全席自由の身。五十年前です。
 或る時、どの席で見ていたか、幕が上がると舞台は薄暗い雪の夜。来かかった浪人者が下駄に詰まった雪を、御屋敷の裏木戸でトントンと落としていると木戸が開き、白い手が出て中へ導かれます。奥座敷に座っていると先の女とこの家の女房らしいのが出てきて、手燭で男を見て二人とも仰天します。トントンの音を、女房の不倫の相手の合図と間違えたのです。男は床の間にあった笛を懐中にして帰ります。笛は、この家の亭主が愛していたもの。亭主は、長期海外旅行中でした。
 話は、笛を取り戻すべく、女房の父親豪商臙脂(べに)屋が、管領畠山のお家再興のための軍資金を出すという、応仁の乱の時の堺での話。浪人は畠山の残党の一人。最後の場。
 幕開きと違って明るい臙脂屋の奥庭。塀の外から出陣の騎馬武者姿の浪人が家人の前へ、不倫の相手の首を投げ入れて行きます。
 家に帰って親父に、どんな芝居だったと聞かれて窮しました。豪華なプログラムは無いし、題名もろくに憶えていません。ままよ、どうせ知らないだろうから簡単にと、
「変な話なんだ。下駄の雪をトントンと叩いていたら木戸が開いて、中に入って、床の間にあった笛を
「あゝ、雪たたきだ。幸田露伴の」
 不倫の話なのに、よく知っているなと意外な感じでした。昔は不義とか密通とか言ったものです。ちなみに親父は、坊主です。後年親父が畠山氏に関して、何を研究していたか大変に詳しいのを知りました。今度調べて、小説『雪たたき』を発表したのは露伴七十三の折、私が二歳、親父が三十五六の時と知りました。知っていたわけです、親父は。
 実は親父に言われた時、少々ドキンとしたのもよく憶えています。当時私は、母親ぐらい年の違う女性と付き合っていたのです。
 と言っても、首を切られるような毛程の隙も見せなかったし、人倫にもとるような
「礼儀正しいさわやかな青年だったのよと言っては、親戚中の顰蹙を買ってるわ」と、向こうも苦笑混じりのようでした。
 頻繁に来ていた手紙の束を、見つけた母親が親父に告げたようです。(文学少女だったといわれた実母だったらどうしたか)
「お母様が大層心配しているから、すぐ手を切ってくれとお父様に言われたわ」と彼女から聞きました。両親から私には一言も無し。気振も気配も、皮肉も寓話も一切無し。当時街では、フランス映画「肉体の悪魔」が評判でした。似て、全く非なるものでした。それで何十年、おのおのがたは、あの世へ去り、心中は解らず仕舞。親の心は難しい。親になっても解りません。
 『雪たたき』の出典に関して、海音寺潮五郎が『剣と笛』で前後を詳しい話に仕立てていますが、不倫の相手の首には触れません。露伴も、笛を返すの返さないのと呆れる程の饒舌の後、最後の二行で、遊芸のお師匠さんの首が、何者かによってひそかに臙脂屋の庭に投げ込まれたと誌しているだけです。
 両親の法要の通知を見て、しかし私は、芝居の最後の場を明るく思い出しました。首があの時、私達と違って北叟笑んで

その9

初出:ナナカマド短信9号/2003年4月7日

 カルチャーセンターで「古事記」「日本書紀」「続日本紀(しょくにほんぎ)」の講義を女房が受けていると言ったら、あんたのとこじゃ夫婦の間で高尚な会話が交わされているんだと友人が笑いました。私の無学をよく知っていて、何でも教えてくれる例の友人です。食後に女房が、オーアマは好きになれない、オートモが可哀そなんて言うから、オーアマって、人妻ゆえに我恋いめやもって歌った天武だろ、壬申の乱ね、紫の匂える妹を憎くあらばか‥‥ちょっとトイレと立ち上がってしまいます。帰ってきて、金竹さんちで、彼のチェロと合わせるんで、久しぶりに国分寺駅に行ったら人身事故で動かないんだ、全く多いねと、ジンシン紛れで話題を替えます。「飛鳥」の何やらの本を読んでいるので、傍を通って、飛ぶ鳥をなんでアスカと言うんだと聞くと、諸説あって解らないと言います。ザマーミロと思いながら自室で国語大辞典を引いたら、なるほど諸説あります。その最後の説。驚きました。
 「アと仰ぎ見ればスカスカと羽音のするところから、飛鳥をアスカと言う」矢が当たってカンと鳴ったからヤカン、千早姐さんが振ったから千早振るだというのと同じです。二つめのスカはどうしたと聞きたくなります。
 続日本紀の先生が交替して若い女先生になった最初の時間に、このくらいは抑えておいて貰いたいと何枚かのプリントを渡された中に、例のキノエネ、キノトウシの暦があったそうです。前回のこれを読ませたら、白地図の如きものがここにも一人いるのよ、どうもよく解らないと言っていました。
 あれは、学校で読み方を教えなかったから日本中みんな、どうもよく解らないと言う事になったのでしょう。「甲」をコウ、カン、カブトと教えても、キノエと読むとは教えてくれませんでした。「辛」をシン、カライ、ツライと読めても、誰れもカノトとは読めません。吉原の細かい事に関して志ン生がよく言っていました。「こんなこたあ学校じゃあおせーない」小学校四年になる長男の長男がすぐ言うそうです。「学校で習ってないもん」
 これは自分のため、あとで辞書を引かなくて済むようにここに書いておきます。
 甲キノエ、乙キノト、丙ヒノエ、丁ヒノト、戊ツチノエ、己ツチノト、庚カノエ、辛カノト、壬ミズノエ、癸ミズノト。十二支は、
 子シ、丑チュウ、寅イン、卯ボウ、辰シン、巳シ、午ゴ、未ビ、申シン、酉ユウ、戌ジュツ、亥ガイ。
子どもの頃、こういう謎々がありました。
 子子子子子子子子子子子子を何と読むか。漢詩漢文の「ノ」を適当に入れる習慣が必要です。猫ノ子ノ子猫獅子ノ子ノ子獅子と読みます。私はネズミ歳ですから、あと四つ足して、鼠ノ子ノ子鼠と何故やらないのかと思っていました。
 夜、布団の中で壬申の乱はいつだったか指折り数えました。六百年代ぐらいの見当はついています。
 一八六八年明治元年戊辰(ボシン)を起点にします。六十の倍数一二六〇を引くと、六〇八年がボシン。ボの方はキ、コウ、シン、ジンと四年で壬になります。幸いな事にタツの方もミ、ウマ、ヒツジ、サルと四年で申です。つまり六一二年が壬申。見当からするともっと奈良時代に近い次の壬申、六七二年だろうと決めて翌朝歴史年表で確かめました。
 中国の辛亥革命は、壬申と違って辛と亥が簡単に会ってくれず十分楽しんだ末一九一一年を探り当てました。悔しい事に、例の友人と一盃飲んだ時さりげなく聞いたら、一九一〇年前後と軽く答えてくれました。流石です。
 前回の寛政丁巳(テイシ)ヒノトミは寛政九年、一七九七年です。フルートを現代型に改良したベームは三才。その二十年程前、プロシャ国王を弟子にしていたクヮンツの笛が、今私が吹いているのと似たようなもの。最近その製作者に会いました‥‥いずれ。

その8

初出:ナナカマド短信8号/2003年1月27日

 東村山には東京都の浄水場があります。南面の土手は三百メートル程。西端のコンクリートの土止めに腰掛けて笛を吹いていると北風に、桜の枯れ葉が降りしきるといった感じで頭上に落ちてきます。目の前空堀川が流れその向こう土手の上が新青梅街道。トンネルをこっちへくぐり抜けて馬頭橋を渡って浄水場に突き当たる所、狭い草地に二基の石塔が建っています。高さ一メートルぐらい。
 三日続けて、飛ぶ宝石と言われるカワセミを目撃した事もあり、あたりの景色を我が練習場として書くつもりでしたが、笛を吹きながら石塔を見ているうち、あの字から、それが何年に建ったのか気になり出し、とうとう正月の或る日、アルコールで唇を湿めらしつつ紙とエンピツの助けを借りました。
 石塔の一つは、正面に「石橋供養塔」とあります。右側面に「右所澤道」その下二行で「武州多摩郡田村」(注:回の字は原文では旧字体)「願主秋山甚左衛門」左側面に「左山口道」同じく二行で「寛政丁巳四月」「世話人総村中」とあります。田村はり田村です。気になったのは「寛政丁巳」です。テイミは何年の事か。
 寛政元年は一七八九年、憶えやすいでしょう。モーツァルトはあと二年の命。ベートーベンは十九才、クーラウは三才。
 寛政は松平定信の改革で有名ですが、これは天明七、八年から寛政五年までで「鬼平」こと長谷川平蔵が、火附盗賊改として働きます。寛政は十二年までです。『鬼平犯科帳』は二十何冊か出ていますが、私は第一冊しか読んでいません。時に会って一緒に天丼食べて碁を打つ子どもの時からの友人が「鬼平熱愛クラブ」の会長なので馬鹿にされないよう折にふれて知識を蓄えているのです。
 さて、丁巳です。
 知っている事、知り得た事等取り混ぜて、フルートばかり吹いていて、こういう事に関しては白地図の如きナナカマドの諸君のために、得意の知ったかぶりを披露します。五行(ごぎょう)十干(じっかん)十二支(じゅうにし)から。
 五行。モッカドゴンスイ(木火土金水)。キ、ヒ、ツチ、カ、ミズと読みます。それぞれ兄弟がいます。木の兄、木の弟、火の兄、火の弟‥‥兄を「エ」弟を「ト」と読んで、キノエ、キノト、ヒノエ、ヒノト‥‥
 十干。コウ、オツ、ヘイ、テイ、ボ、キ、コウ、シン、ジン、キ(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)口調がいいので二三回繰り返せば頭に定着します。しない人はあと読まなくて結構。五行が十人だからぴたり合います。庚をキノエ、乙をキノト、丙をヒノエ、丁をヒノト戊をツチノエ‥‥と読んでいきます。例えば最後の癸を漢和辞典で引くと、「キ、ミズノト」とあります。
 十二支。ご存じの動物。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥。十干をつけて頭からキノエネ(甲子)キノトウシ(乙丑)ヒノエトラ(丙寅)‥‥と読んでゆくとイヌとイが余ります。でキノエイヌ(甲戌)キノトイ(乙亥)と干を戻してヒノエネ(丙子)ヒノトウシ(丁丑)‥‥とやってゆきます。六十回で元のキノエネに戻ります。還暦です。
 明治元年の上野の山の彰義隊、会津の白虎隊、函館五稜郭の戦さをひっくるめてボシン(戊辰)戦争と言います。高校の日本史で習いました。ツチノエタツ戦争とは教えてくれませんでしたが。明治元年一八六八年がツチノエタツとしたら、今年のヒツジは何の未?
 布団の中で夜中、指折り数えました。明治元年から数えて今年で一三五年。一二〇年を省けば一五年。タツの次ぎからミ、ウマ、ヒツジ、サル‥‥と一五指を折ると間違いなくヒツジに当たります。さればとボの次ぎキ、コウ、シン、ジン、キ、甲乙丙丁‥‥と折れば正に癸です。ミズノトです。念のため今朝本屋さんで、例の高島易断の暦を開くと一ページめに今年は「癸未みずのとひつじ」とありました。寛政丁巳に関しては、次回で。

その7

初出:ナナカマド短信7号/2002年10月27日

 勝負がついて、石を片付けた時、
「せめてこのぐらいの盤で打ってなきゃ、強くならないぞ」と、兄は二本の指で碁盤の端を叩きました。テレビの囲碁の時間で使われているのと同じ五六センチ厚さの卓上盤で、七万だったそうです。それでお金を貯めて正月に、教えられた駒込の店へ行って、恐る恐るボソボソと、
「ざっくばらんに言うと、石ともで十三万持ってきました。あとは電車賃です。遠いんです。東村山で、高田の馬場から‥‥」と言うと店主は私の肩の大きなリュックを見ながら、四倍ぐらい明瞭な大声を上げました。
「七万だなんて。お兄さんに買って頂いたのは二十年前ですよ。今二十万ね。物干竿じゃないんです。弱ったなァ。その中に入れていくわけ? 石だって何号? ゴケは欅の特大があったか、それだって‥‥弱った。お兄さんとタガイセン? 強いんだ、弱った!!」
 御存知のように、私は口べた、挨拶嫌い。ただただ縋るような目付で、店主の口許を見詰めるばかりでした。
 兄は、何百万もする盤もその店で買っていて、裏に呉清源さんの揮毫を貰っています。いわゆる碁きちで「こんちは」「さよなら」の間に、碁以外の話は入りません。何年も昔に日本棋院発行の五段の免状を取得しています。(このあいだ行くと、ゴルフへ行ったとかで留守で、嫂が「来たらこれをよく見ろって言えって言ってったわよ」と、長押の上を指さしました。見ると、近年棋院を脱退した藤沢秀行さん発行の免状で、やはり五段でした。秀行さんの書は独特で、それを鑑賞しろという事のようでした。ちなみに私は、一枚も持っていません)
 駒込で結局、私の欲しい物全部を店主は十三万の領収証と一緒に渡してくれました。
 それが一昨年。それからが忙しかった。勿論笛は人生の通奏低音、毎日吹きます。
 勧められて『本因坊秀策全集』全五巻を買って読みました。当然石を並べます。次いで一念発起して、先達さんたちの打ち碁百局百手までを、毎日十局ずつ並べました。フルートで言えば「タファネル=ゴーベール」。形ひと目で反射的に、指が最善の箇所へ石を運ぶことを希い、繰り返し、繰り返し‥‥現実は頗る流動的でしたが。
 暮れに、学生時代にトシクッタら読もうと残しておいたプルースト『失われた時を求めて』全十三巻を次女が、もう充分トシクッタからと買ってくれたので読むと、やっぱり恍惚。それで春の夜の夢ばかりで行けばよかったのに夏になって『呉清源21世紀の碁』全十巻を買ってしまいプルーストは中止。更に王立誠さんの『囲碁の真理を探る』一・二卷、挙句‥‥流行の「結果を出す」という言葉が大嫌いの筈の私が、今年‥‥
 能管は数段上の若い女性が暑中見舞いに、
「フランス人と碁を打つ約束をしてしまいました。あちらはコンピュータ相手にやっているとの事。それなら日本人の私が相手しましょう」と言った、と書いて来ました。経験皆無だけど伝統芸能ならお任せ、と言った風情で、挟み将棋、オセロゲームの感覚でした。
 電話で、こんこんと説教しました。いくら何でも無茶である。碁は深奥、窺い知れぬ仙境の遊戯である。国辱もんだ! と。嬉しくなりました。長崎で何を討ったか、溜飲とかを上げたか下げたかかにかくに、年金生活初年のこの夏、お陰でメチャ幸福でした。

その6

初出:ナナカマド短信6号/2002年7月10日

 口笛は幼き頃のわが友よ、吹きたくなれば、吹きて遊びき
 この歌を憶えているでしょうか。何年か前の誕生日か父の日に、子供たちから贈られたビデオ「男はつらいよ」の第一作、何度見たか。寅さんと遊びに出た帰り、夜遅くお寺のお嬢さんが流行歌を歌って「シー、みんな寝てんですよ」と制せられて、「いいじゃないの、歌ったって」と我儘に言ってから口ずさむのが、一件啄木風のこの歌。
 何でも教えてくれる友人によると、こういう風に文語体と口語体が混ざっているのは、啄木の時代にはなかったとの事。「吹きたくなれば」はこの場合口語です。
 多分笛を吹く人は、子どもの頃、よく口笛を吹いただろうと思います。私も同様です。高校時代の友人に会ったら、「あの頃よく、吹いていたねェー」と口つきを真似されました。当時読んだヘッセの小説の主人公が、夕方、前の家の女の子に口笛を吹いて聴かせる場面があったと記憶します。
 晴れし空仰げばいつも/口笛を吹きたくなりて/吹きてあそびき
 夜寝ても口笛吹きぬ/口笛は/十五の我の歌にしありけり
これが啄木です。
 学生時代に『竹取物語』に関する論文を書きました。貴族のドラ息子五人が夕方、かぐや姫の家の回りをうろつきます。求婚です。「ある(い)は笛を吹き、あるは歌をうたい、‥‥あるはうそぶき‥」とあります。異説もありますが、この「うそぶき」が「口笛を吹く」なのです。
 口笛は軽薄なもの、それで名曲のさわりを吹くなんて論外であると思っているのは、これは私だけじゃないと思います。なのに吹いて楽しんでしまいます。レコードがSPからLPに替わった遠い昔、サンサーンスとパガニーニのバイオリン協奏曲をフランチェスカッティが弾いている素晴らしい盤が出て、夢中で口笛を吹いたものです。
 口笛は、嘘である、実がない、という感じがあります。口笛の曲が無いから、他の曲のさわりを吹くためだと気がつけばいいのに、何故か一人で恥入っています。その思いが蒿じてきて、そのうち、笛もウソなんだ、実が無いなと感じるようになって来ます。よく聴くと、本当に空虚だな、と思います。当たり前で、ガラン胴のところに口をつけて吹くからです。実が無い、ウソであると古代人も感じたのでしょう。
 千三ッと言います。千のうち実があるのは三ッだけ、あとはカラ。万ガラと言います。
 その上。万全部カラというわけです。北原亜以子さんの小説にそんなのがありました。ウソをつくと自分でも本当のような気がして来るそうです。フルートも似たようなものでしょう。バッハですと言って吹くと、なんか バッハの曲を吹いているような気がします。
最近トラベルソというフルートの元祖、総本家みたいな木の笛に凝っています。芯のある、ウソそのものといった趣きの音です。東京西多摩の「笛吹」という部落をウスヒキと読むのはウソフキが転じたものです。小鳥のウソは笛の様な声で啼くために名がついたそうです。漢字は学の下の「子」が「鳥」です。学問の神様、天神様の一月の神事に「ウソ替え」があります。
 声や字はともかく、亀戸天神の木彫りの、特に小さい五百円のは可愛いったらありません。我が家のテレビの上に並んでいます。

その5

初出:ナナカマド短信5号/2002年1月27日

 ○笛吹の部落にオマンジャという美しい娘がいた。漆黒の髪が足もとまでのび、それを櫛けずる姿は、里の男たちの……
 ○笛吹の里近くに、しばしば狸が化けて出た。あるときは若い娘の姿になって若者をたぶらかし、ある時は尊い行者に……
 ○笛吹に美しい娘がいた。旅の男が訪ねてきて、滞在するうちにねんごろになり、女は男の胤を宿した。女はやがて男の様子……
 瓜生卓造さんの『桧原村紀聞』は非常に秀れた作品だと思います。私じゃいくら言っても駄目でしょうから、吉村昭さんの推薦のことばを紹介します。権威に頼ります。
 「不思議な魅力にあふれた作品である……
対象は小さな集落だが、著者の入念な筆致によって、それは豊かなひろがりを見せ……
ほのぼのとした温かみが行間にただよい、 随所に著者のしたたかな眼の光を感じた。
このような魅力にみちた作品に出会うことは、きわめて稀である。」
 笛吹の部落は、桧原(ひのはら)の最奥数馬部落の二キロほど手前にあります。武蔵五日市の駅前からバスで一時間ばかりです。
 何十年か前、フルートクラブの人達と奈良の笛吹神社へ二度行きました。その後地図を見ていて、東京にも笛吹神社があることに気づき、『桧原村紀聞』に出会って前掲の笛吹村の伝説も読みました。フルート吹きでなくても行きたくなる話でしょう。
 おととしの忘れもしない七月廿日の休日、晴れて暑い日に行きました。一人で。下見のつもりでした。
 「笛吹」というバス停で降り、左手の丘を登って行くと、南側の斜面に何軒かの集落がありました。当時私は左膝を痛め、正座が出来ないので能管をやめた程だったので、無風の炎天下をそろそろ歩きました。たちまちシャツはぐしょぐしょ、ズボンまで汗が滲み出ました。まさかそんな暑い日になるとは思ってもみませんでした。
 鴬が盛んに啼いていました。啼き声が一様に、ホー・ホケキョ・ケキョ。誰かさんと同じで一言多いなと思いましたが、暑さのために笑う気がしません。すぐ右手の小高い山の下にコンクリートの大きな鳥居があって、「笛吹神社」の額が見えました。近づくと、鳥居の下から左右へ鉄条網を延々と張り囲らし、入り口に鍵があって、猿害のため高圧電流を流しているから近づくなとありました。
 小山そのものが御神体なのか社は見えず、木陰に坐って休む場所は無し、部落の中を奥まで行く気力も失せ、鴬の声以外物音一つしない中、もと来た道を下り、街道を横切り、小犬に吠えられて、南秋川の渓流に降りました。とにかく、涼を求めました。
 秋川を瓜生さんはこう書いています。
 「秋川には多摩渓谷の荒々しさはない。(中略)石も岩も、木々も流れもすべてほどほどに処を得ている。勇者、強者の相は見えない。楚々とした佳人の面である。」
 その楚々とした佳人の面前で失礼をも顧みずパンツ一枚になり、木陰で流れに膝まで浸ってフルートを吹いたんですが、案に相違して蒸し暑いのなんの、半音階もそこそこに、フルートを岩に置きました。結局また、ぐしょぐしょを身につけ、バスの中、汗は体温で乾かしました。なんたる暑さだったか
 新緑の頃は、きっと好いでしょう。五月には行くつもりです。一緒に行きませんか。笛吹をウズヒキと読む、に関しては、いずれ。

その4

初出:ナナカマド短信4号/2001年11月21日

 三ツ木さんの「フランス派フルート……」が終わって、いよいよクラブの殆どの方々とお別れという事になりました。ほぼ三十五年の間「話」なる駄文を会報に載せて来た身としては「サヨナラダケガ人生ダ」と何かにつけて独りごちています。
 このあいだ目の前の若い人が、「それって、どういう意味ですか」と聞くので、以前は意味も解らずこれを唱えてしたり顔をしていた若者が多かったのに、何と素直な、と感心しました。勿論、待ってましたとばかり例の知ったかぶりを楽しみましたが。
 と言っても、これは簡単。于武稜(うぶりょう)という人の詩「勧酒」の最後「人生別離足る」をキザっぽく訳したものでして、前の第三句「花開けば風雨多く」が、ハナニアラシノタトヘモアルゾで、続けてみればネ、上手く訳すもんですねえ、井伏さんは。多と足が同義ですから入れ替えてみれば、意味は明瞭、ネ?
 井伏鱒二にこの種の訳詩がいくつかあってアサガヤアタリデ大ザケノンダとか、ケンチコヒシヤヨサムノバンニとか、若い時から口の端に載せて友人と親しんできたものです。最近、例の渋川の姉弟子並木さんに講談社文芸文庫の『厄除け詩集』を贈られました。厄除けの心遣いです。有り難いことです。この中に一連の訳詩も入っています。
 私にとって頗る暗示的なのが銭起の「逢侠者」、こんなものです。
 イズレナダイノ顔ヤクタチガ
 トモニカタラフ文七ガイヘ
 ダテノハナシノマダ最中ニ
 マヘノチマタハ日ガクレル
「文七ガイヘ」とありますが、文七は毎日この家に通って来ていました。顔ヤクタチはトモニカタラっているうちに、オカネとメイヨが原因で喧嘩になりました。よくある話です。家主は総スカンを食って病気になりました。文七が通い出して何年もしない頃のことです。
 やがて家主が亡くなりました。当時ドンと目されていた顔ヤクが言ったそうです。
「あんな家なんか潰すのわけないけど、文七ちゃんがかわいそうだから放っておこう」
 この言葉を伝えてくれたのは、後に篠笛の修業に精を出された校長先生で、人柄同様話に信憑性があります。文七は感謝しました。お蔭でフルートを吹きながら、三人の子どもを無事育て上げ、能管にはまりラグビーにのめり込み、囲碁漬けの毎日が続きました。以上が、この詩の前半二句の裏です。文七が私で家が日本フルートクラブと言えば、他は全て御推察通り。
 後半二句は前半と時空を異にしますが、これは、このまま。「ハナシ」は「話」です。もっとも「日ガクレル」は、人生の終盤戦をほがらかに迎える身にとっては、不吉です。高適(こうせき)の「田家春望」の四句めと入れ替ましょう。こうしたいわけです。
 ダテナ「話」ノマダ最中ニ
 アサガヤアタリデ大ザケノンダ
 本音は、ヨワッタカラダニビクツキナガラ
 オギクボアタリデ小ザケ……イッショニノミマショウヨ。まだ、おたくの「話」は聴いてませんぜ。

その3

初出:ナナカマド短信3号/2001年8月2日

 ロシアの民話をもとにトルストイが書いたという童話「大きなカブ」、じいさんばあさんと孫娘、イヌ、ネコ、ネズミが力を合わせて大きなカブを引き抜くという話、あれにもう一匹ゴキブリを加えて学芸会でやって、長男の長男、小学二年の私の孫がゴキブリ役で大受けだったそうです。今年の「父の日」に彼らがやって来て、そんな話をして行きました。三つになる次男が兄さんはこんな風にしたと這い回って、我が家では大受けでした。
 お互いあやつめに関する思い出はたくさんあっても、どれも気色悪く、他聞を憚るものばかりで、ここで書くわけにはいきません。
 ただ一つ、わたしとて若い女性贔屓ですが、あやつめに対する彼女たちの悲鳴、あれはいただけません。カマトトメが といつも思います。私の幼馴染でピアノとリトミックの先生になった女性が若い頃、素手でパッとあやつめを捕ったのには感心しました。手を洗いながら「案外カサカサしてるのよ」なんて言っていました。
 久しぶりにフルートを吹こうと、組み立てておいたのを取り上げると、陰にいたあやつめが逃げたので、キャッ と放り出して、修理費何千円か取られた女性がいました。二三十年前のナナカマド無関係の女性です。フルートは組み立てたままにしておくと練習時間が増えるとはよく言いますが……驚いたことに、この話をご本人から聞いて、一ヶ月ぐらいして別の人から彼女の噂として聞いた時は、吹こうと口に当てたら歌口からあやつめが出てきて、ギャッ という話に変わっていました。
 呑み込んでしまった話になるには、そう時間がかからないようでした。
 呑み込んでしまった話は、あります。クモと書いてありますが、あやつめの方が話は滑らかだし、目撃した人はいないようなので、私があやつめだと信じている話です。
 さきの筑前の守源兼俊は笙の笛の上手で、小野田三郎ならぬ新羅三郎と同門でした。新羅三郎義光と言えば、八幡太郎義家の弟。後三年の役の時、役所の仕事をおっぽり出して兄を追い、途中足柄山中で師匠の息子に秘曲を伝授した話が有名です。(「時秋物語」で以前紹介した記憶があります)知略にとみ、弓矢の達人で後三年の役で大活躍したんですから気力、胆力とも抜群、あやつめを呑み込んだぐらいでは平然としていたでしょう、彼ならば。ところが、こなた兼俊。
 たまたま宮中で、笙の笛吹が足りなくて呼ばれました。昇殿が許される、殿上人になれるとうきうきして行くと、天皇他大勢の前で、試しに吹いてみろと「きさきえ」という名器を渡されました。宮中の名器なんていうものは普段あんまり吹かれていないもので、中に住んでいたそやつめが、ガタガタ、ガヤガヤ、何事かと出てきたのと、兼俊が気合いを込めて大息を吸ったのが同時。両者があっ! と思ったときは既に遅く、そやつめは兼俊の喉の奥に移っていました。オエとなったのを、場所柄ぐっと堪えたんですが、前祝いのアユが胃の底から噴き上がって来たか、結局、
 「むせてはつきまどいける程に(むせて吐いて目を白黒させたもんだから)主上、群臣わらひ給いて腸(はらわた)を断けり。おほきに嗚呼(おこ)を表して(大いに醜態を演じたので)昇殿のさたもとどまりけり」

その2

初出:ナナカマド短信2号/2001年5月18日

 ナナカマドのMTさんと千曲川源流へ釣りに行った時、ウェーダーの足裏が全く滑らないのをついうっかりしていて、私は大岩から流れに落ちました。バランスを失い、向きを変えて膝の下で釣竿がバキバキ砕けるのも構わず必死で岩にしがみついたのですが、最後は季節もいいしと諦めて、何故かゲラゲラ笑いながら飛び込んでしまいました。
 上体が水に突っ込み下半身は浮いているというウェーダー独特の無様な恰好から何とか脱して、遠くのMTさんのところまでジャブジャブ歩いていきました。彼は私の渓流釣の師匠です。天性でしょう、釣り姿がいつも様になっています。やや離れた後ろから見ていると、ふと、顔をこちらに向けて、
「釣れました? おゝ、濡れましたか」
 もうあがる、と私が言うと、彼も納得して納竿してくれました。
 崖はよくある金網に大石を詰めたのを積みあげたようなもので、慎重に昇れば歩きやすい。中程まで上がっていくと、上の林道を散歩の帰りらしい一家五六人が降りて来るのが見え、頭上まで来かかると、崖の上にお父さんの顔が現われ、私に向かって、
「ヤマメですかー」と大声を上げました。
 わしだって釣の事ぐらい知っているぞと、家族にしたり顔を見せたい気持はよく判ります。が、大事な竿を潰してあちこち痛む、中に入った水で今やパンツまでぐしょぐしょ、その不機嫌な堂々男子に向かって、頭から濡れそぼっているとは言え、「山女ですか」とは何事ぞと、少しむっとして、
「いや、ひとです」と……言おうと思ったんですが瞬間思い直して、にっこり笑って、
「いや、何もいません」
 この話をナナカマドのNMさんが私の話として、お姑さんの入院先で他にも見舞客がいる場で披露したら、「いや、ひとです」 でどっと来たそうです。彼女はリコーダーを吹いて「ベースの女王」と言われた人です。一事が万事、話術にも長けています。
「ごめんなさい。あんまりみんなの笑いがすごかったものだから、あとを言いそびれちゃって、″いや、ひとです ″って本当に言った事に……」
 誤解される事を苦にしない私の性格が幸いしました。 

その1

初出:ナナカマド短信1号/2001年3月1日

「深川の町をあちこち探したんだけど、知呂利はありませんねぇ」

「なんですか、それは」

「お酒を燗するもので、ほら、おでん屋なんかによくあった、こんな形をした」と私は空に両手の指で形を描いて見せました。フルートの先輩の矢羽さんと後輩の金子さんと暮れに門前仲町で飲んだ時の事です。
 何日かして矢羽さんがテレビで時代劇を見ていると、出て来たそうです。
「あっ、小野田さんが探してたの、あれだ。なんと言ったかなあ、千鳥か、かもめか、確か鳥の名前だったな」傍にいた奥さんが、

「じゃあ、かもめよ、きっと」

「そうだなあ、かもめかも」
 また何日かして偶然出会ったので、そこは朝からでも会えば飲む間柄、真っ昼間そば屋で飲もうと入ると、席につくや言ってくれました。
「小野田さん、かもめ見つかりました?」
「かもめ?」

 次女が、年末の初ボーナスでプルーストの『失われた時を求めて』全巻を買ってくれたので、私は用意していたお金で初馬券、有馬記念を買ってパーでした。頭に来たので、
「畜生! 来年も有馬記念絶対やるぞ!」と叫んだら、小沼が言ってくれました。
「失われた金を求めて、か」
 みんな楽しいことを言ってくれます。仲好くしなくちゃあ。