私の「笛」の履歴書

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 笛を最初に手にしたのは、実に二十四年前である。私、乙女の頃をチョット(?)過ぎた頃だ。仕事にも充分慣れ、恋もしていた。それなのに何故フルートを吹きたいと思ったか、今となっては定かではない。高校ではトランペットを吹いていたが、フルートのようなデリケートな楽器は向いていないと思っていた。が、「このままではイケナイ」と思った記憶があるので、〈乙女の頃〉の終焉を無意識に感じ取っていたのか…。
 M新聞社に「フルートクラブメンバー募集・初心者歓迎」と張り紙があった。企業のサークル活動で、フルートに限られたものは、珍しくないだろうか。まして、合奏団かと思い見学に行ったら、個人指導もして下さるという事で、私にも入部を認めて下さった。
 指導はY先生である。先生はまず、「電車の網棚に、楽器を乗せてはいけない」と言われた。笛を吹く以前の問題である。以来、少々重くても、鞄に入れ手に持つようにしている。次に、「一日、十分で良いから、笛を持つ感覚を、身体で覚えて欲しい」という事であった。確かに無理のある、不自然な姿勢である。当初暫くは、本当に毎朝十分ほど、息を吹き込んでいたように思う。(まじめ・・)。      
 音符が読める以外は、全く初めてのことで、勿論教則本はアルテ1巻から。指導は基本に誠に忠実に、特にスケールには時間を費やし、週一回の練習日でも、なかなかOKをもらえなかった。何処の先生も忍耐強いようだ。スケールなどもやはり、十分に身体で覚えることが、初心者には有効なのだろうか。それにしても、Y先生のスケールは、「音楽」になっていて、反射神経だけで美しいスケールにならないことは、明白である。
 クラブのメンバーは、社員やその友人たち、仕事以外の利害関係のない、「笛」と言うキーワードで繋がった仲間たちだった。放課後の乾いた喉を潤すビールは格別である。音が出始めた楽しさもあって、週一回の練習日を中心に、一週間がめぐっていたように思う。
 さて、アルテ2巻の練習が進むにつれて、合奏も少しずつ皆と合わせられるようになった。が、迷子になって曲を止めるのはいつも私である。度々迷惑を掛けるので、旅に出た。フルートだけの合奏団に入り、武者修行の身となるのである。ノーマル4パート、低音楽器四種類などと言う編成を、(自分なりに)全身を耳にし、周りを聴き、合わせる事に神経を集中させる。落ちても乗れる様になると、合奏の楽しさは倍増した。3番パートの「キザミ」にソロフルートのメロディーが滑るよう入り重なり合った時などは、鳥肌が立つ思いである。
 その頃から、どうも耳の機嫌が悪いのである。外因性難聴とも言われ、突発性難聴を繰り返し、コンサートにも二・三年は怖くて行けなかったものである。ストレス・過労なども一因と言われるが、元来気の弱い私である、耳には苦労を掛けている(ゴメンね・・)。中断しながらも続けていたが、ここ数年は全く吹けない状態が続き、合奏団も退団して久しく、M社のクラブも解散した。
 この春、一念発起して再び先生につく事にした。若くて背が高くてハンサムな先生だ。曲の速さには関係なく、心臓が勝手にアレグロのスピードになる(ふぅ〜)。そんな不真面目な思いが、またも耳のご機嫌を損ねてしまった。チューナーに合わせた3オクターブ目の練習が耳を直撃した。レッスンは三回で中断。やる気になっていた分、その数倍落ち込んだ。自分でも意外なほどの落胆振りだ。それ程フルートに愛情があったか、自問するところである。その先生は、忘れていた「超」基本的なことを、思い出させてくれた。また、運指の一部に間違いも発見!し、唖然となった。Y先生の名誉の為、Y先生にはきちんと教えていただいたメモがある。
 こうして改めて書いてみると、長い年月が過ぎて行った事が分かる。ナナカマドの創設者(?) O先生にも、当初からお世話になった。Y先生と合同で、何年にも渡り発表会を催した。そして、どの場面でも、吹いている私の背後で助けてくださるのが、坂井さんだ。坂井さんのお人柄を、ここで語る必要は無いと思う。が、最初は「恐かったぁ〜」。年一回の発表会でしかお会いしないし、本番では先生も緊張の面持ちだ。こちらも笑っている余裕など無い、雑談も途切れがちであったかもしれない。最近では音楽以外の話にも付き合ってくださるので、嬉しい限りである。 
 今は、これから先ずっと吹けないのか、不安でいっぱいだ。出来れば、無理せず、吹ける時に、楽しく吹けたら、と思う。そして最近二度ほど、ナナカマドに参加させていただいた。「声を掛けていただき」、「吹ける場所がある」、と思うだけで、「いつかまた吹ける」という希望に繋っている。

(初出:ナナカマド短信31号/2008年10月5日)


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