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先ずお礼を申し上げます。この老いぼれを優 しく迎え入れて下さる七竃の皆様方、有難うごさゐます。
物言えば唇寒し秋の風 物書けばご監の通り支離滅裂 笛吹けばお聞きの通りミスばかり とてもまともな事は書けませんが、先ずは一筆
フルートとの出会ひは中学の部活、軍国主義突入時で剣道か柔道部は必修あとは野球、庭球、珠算、書道、音楽部位で別に希望は無かったのですが、音楽部長が妹のピアノの先生 だったので、ではブラスバンドにでも入って見るか程度でした。細長い黒いケースを開けると光った金属が二筋、何だらうと見ている中に一本の管になり、横に穴が有り、アッ横笛かなと思ひました。フルートと言う言葉も知らぬ年頃と時代でした。吹いて見ろと言はれましたが、目が廻って即ダウン、十三才の鼻たれ坊主諦めて居たら違う人生でしたネ。
さて練習はと言うと、日の丸行進曲、露営の 歌、軍艦マーチ、扶桑行進出等々、軍艦マー チ、旧友等は難曲でしたが名曲でしたヨ。南京陥落何々の度毎にブラスバンドが、提灯行列、旗行列の先頭に立って得意満面で行進しました。日比谷公園の野外音楽堂でコンクールが有り何時も 4位で残念、と言う所でした。
又芸大奏楽堂では個人コンクールも有りました。これが傑作なお笑ひ種ですが、上級生から『お前出て見ろ』の一喝で、短い練習曲で出場、結果は一位無しの二位が私、「或る女」を立派に吹いた他校の生徒が三位、気の毒でした。でも此が私を盲蛇に怖じず、恐いもの知らずの恥曝し者にさせた遠因でせう。
その頃銀座には十字屋、山野、ヤマハが有りましたが、十字屋に六十五月の銀色の横笛が 陳列されて居て、行く度にまだ有る、まだ有る、あれが欲しいなとは思ふのですが、父の月給位だったのでせう、でも買って呉ました。部の楽器は日管 ( ヤマハの前身 ?) で低音が出ません、皆が集まって来て『オイ川見の楽器 下のドまで出るゾ』と大騒ぎ、これが村松楽器との出会ひです。
いよいよ戦争も烈しく、十二月が中学の繰り上げ卒業式/東芝電気に入社し、四月に大学の夜学に潜り込み、オーケストラ ( 実はハーモニカバンド)に一年間入部し、二年目に藁人形目掛けて裏面目に銃剣術の練習をしたお陰で、昼間部に編入出来ました。然し勤労奉仕の連続で勉強もフルートもお預け、最後は佃島の石川造船所で大きなトロッコで石炭 運びの勤労奉仕、九月に須崎の遊郭跡の宿舎 で「かしら|右 」 の卒業式、 比が最初のフル ートの空白時代でした。私のフルートとの 出会ひは皆様方の様に音色に惣れて初めたのとは違ひ、随分いい加減なものでした。
二度目の空襲で母をも亡くし、スッカラカン : の無一物、但しフルートとピッコロだけは、 ケースは焼けても助けたものの変然自失、其の後入営、終戦、兵隊から婦り二十二才になって初めて先生に習はうと思ふ様になりまし た。折角二人の先生に師事しながら、これからがミスの連続、無数の失敗談はお笑ひ種に二次会の一寸一杯の時にでも・・・・
七十二年のフルート生活をもっと簡単に羅列する積もりが、思はず紙面を汚して仕舞ひました。 失礼
(初出:ナナカマド短信32号/2009年2月8日)
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