我が失敗の楽歴(神風)

川 見 禎 洪

 間も無く閻魔大王の前に引き出される身 正直に失敗談でも書いて置けば減刑して貰へるかも知れぬ 桑原々々
 私には最初の中、 神風が吹いて居て失敗どころか幸運の連続でした。
 大正末期に生まれ昭和初めにハシカの高熱で両眼失明右耳完全不聴となり、 親は帝大、慶大、井上眼科、秩父の名医と全ゆる所を訪れ、結局は不治の病と 見放され、人伝てに聞いた根岸薬師堂を尋ね、家伝の眼薬で開眼しました。 或いは「按摩ーカミシモー」とそっちの笛の名手になって居たかも……(まさに神風です)
 小学三年に越境入学不可の筈の根岸小学校(下町の学習院)に転校させて 呉れたのですが、唱歌の時間等隣の悪友に「先生 川見君歌ってません!!」と 云ひつけられる程声の小さいおとなしい不出来の子でした。
 何と又神風が吹き中学に百点満点トップで入学(この年から苦手の理科 地理歴史が試験科目から除外)したのです。親は勿論、学校も期待したらしい のですが二学期には二十八番に転落。本人は至って呑気、恥ずかしくも何とも なかった。却って掛けた事もない号令を小さな声で云ふ方が余程恥かしかった。 そして二年にブラスバンドに入り、フルートと云ふ言葉も知らず医療器械見たいな 物を渡され、これが一生の伴侶となりました。
 三年先輩の大橋幸雄氏(N響のクラ)の芸大受験のためのスケール練習の凄まじさ今でも眼底に残って居ます。先輩の勧めで戸山学校の少年音楽隊に入団 したり、朝日新聞主催の個人コンクールに出て見ろといってハッパを掛けられ、 課題曲と易しい練習曲を引っさげて應募しました。府立一高の生徒がアルルの女を堂々と吹き圧倒されたのに、何と一位無しの二位が私。神風のお蔭とも知らず、実力もないまゝ、変な自信を持つ様になり、これが運のつき、この後も多少の 神風は吹くのですが、神様が私を試していたのではないかしら…… しかしこのころが一番楽しかったやうに思ひ起こされます。
 十字屋に飾ってあった六十五圓の村松製(クローズにした後にオープンに改造) 何日も見に行っては、まだある々々と… 何ヶ月后にやっと買って貰ひました(親の一ヶ月分位では)。この楽器で○○陥落と提灯行列の 先頭に立って、得意満面、宮城前を行進したりもしました。
 しかし戦争も激しくなり十二月に中学を卒業し東芝電気に入社、又神風が吹いて明大二部の商 科に入学。ハーモニカのオーケストラにだまされて入部。ベースを吹かされ目を廻しFlで勘弁して貰ひ、音楽会にも出ました。
 戦前のジャズピアニスト和田肇氏が戦時中軍歌のメドレーで鳴らし、賛助出演の予定が三日前 にキャンセル、突如私にお鉢が廻って来、「何かやれ」と。正式に先生についた事も無し、ましてやピアノで伴奏して貰ったことなどない私は断固断ったがダメ。ぶっつけ本番でケーラーの 子守歌。終わりの方で数小節の休みが続く所で頭の中が真白。遂に神風は吹きませんでした。父母はその后聞きに来なくなった。
 戦況は益々悪化し教練で藁人形の心臓目掛けて人殺しの練習して居る中に晝間部に転部し サァー勉強しようと思ったら石川島造船所へ通年動員で石炭運び。九月に州崎の遊郭跡で「頭(カシラ)ー右!!」で卒業。
 日本の終戦と同時に私の神風もなくなりました。後日あらためて失敗談を正直に一つづつ 御披露します。では丁度紙面も宜しい様で。


(初出:ナナカマド短信3号/2001年8月2日)

老いの音が苦の思ひ出

川見て行こう ?

 先ずお礼を申し上げます。この老いぼれを優 しく迎え入れて下さる七竃の皆様方、有難うごさゐます。
 物言えば唇寒し秋の風 物書けばご監の通り支離滅裂 笛吹けばお聞きの通りミスばかり とてもまともな事は書けませんが、先ずは一筆
 フルートとの出会ひは中学の部活、軍国主義突入時で剣道か柔道部は必修あとは野球、庭球、珠算、書道、音楽部位で別に希望は無かったのですが、音楽部長が妹のピアノの先生 だったので、ではブラスバンドにでも入って見るか程度でした。細長い黒いケースを開けると光った金属が二筋、何だらうと見ている中に一本の管になり、横に穴が有り、アッ横笛かなと思ひました。フルートと言う言葉も知らぬ年頃と時代でした。吹いて見ろと言はれましたが、目が廻って即ダウン、十三才の鼻たれ坊主諦めて居たら違う人生でしたネ。
 さて練習はと言うと、日の丸行進曲、露営の 歌、軍艦マーチ、扶桑行進出等々、軍艦マー チ、旧友等は難曲でしたが名曲でしたヨ。南京陥落何々の度毎にブラスバンドが、提灯行列、旗行列の先頭に立って得意満面で行進しました。日比谷公園の野外音楽堂でコンクールが有り何時も 4位で残念、と言う所でした。
 又芸大奏楽堂では個人コンクールも有りました。これが傑作なお笑ひ種ですが、上級生から『お前出て見ろ』の一喝で、短い練習曲で出場、結果は一位無しの二位が私、「或る女」を立派に吹いた他校の生徒が三位、気の毒でした。でも此が私を盲蛇に怖じず、恐いもの知らずの恥曝し者にさせた遠因でせう。               
 その頃銀座には十字屋、山野、ヤマハが有りましたが、十字屋に六十五月の銀色の横笛が 陳列されて居て、行く度にまだ有る、まだ有る、あれが欲しいなとは思ふのですが、父の月給位だったのでせう、でも買って呉ました。部の楽器は日管 ( ヤマハの前身 ?) で低音が出ません、皆が集まって来て『オイ川見の楽器 下のドまで出るゾ』と大騒ぎ、これが村松楽器との出会ひです。
 いよいよ戦争も烈しく、十二月が中学の繰り上げ卒業式/東芝電気に入社し、四月に大学の夜学に潜り込み、オーケストラ ( 実はハーモニカバンド)に一年間入部し、二年目に藁人形目掛けて裏面目に銃剣術の練習をしたお陰で、昼間部に編入出来ました。然し勤労奉仕の連続で勉強もフルートもお預け、最後は佃島の石川造船所で大きなトロッコで石炭 運びの勤労奉仕、九月に須崎の遊郭跡の宿舎 で「かしら|右 」 の卒業式、 比が最初のフル ートの空白時代でした。私のフルートとの 出会ひは皆様方の様に音色に惣れて初めたのとは違ひ、随分いい加減なものでした。
 二度目の空襲で母をも亡くし、スッカラカン : の無一物、但しフルートとピッコロだけは、 ケースは焼けても助けたものの変然自失、其の後入営、終戦、兵隊から婦り二十二才になって初めて先生に習はうと思ふ様になりまし た。折角二人の先生に師事しながら、これからがミスの連続、無数の失敗談はお笑ひ種に二次会の一寸一杯の時にでも・・・・
 七十二年のフルート生活をもっと簡単に羅列する積もりが、思はず紙面を汚して仕舞ひました。  失礼


(初出:ナナカマド短信32号/2009年2月8日)

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