金竹 隆志    『ダラスで暮らす』



更新2004.8.16

#1

初出:ナナカマド短信9号/2003年4月7日

 ある5月、花の季節の終わろうとするころにダラスに赴任した。借りた家は 年以上経った古いダラスの住宅の様式を残す平屋だった。付近を散歩しても他に同じ大きさの木が見あたらない大きな木が庭にあるのが気にいって決めたのだった。大きく開いた枝は母屋を覆い天高くそびえて、リスのいくつかの家族を養って余りあるどんぐりを毎年枝につけていた。日陰の無いところは人の住めそうも無いという先入観もあったからだ。そこに来るまでダラスのイメージはというとケネディー大統領暗殺を扱った「ダラスの暑い日」とかいう映画で皆が強い日差しに顔をしかめてい町。ならずもの、カウボーイ、砂漠と南部の成り金と何れも悪い印象だった。
 下の子供2人を連れて家内と移り住んだ 月末は花の季節の終わりに当たる。春の短いダラスでは水仙から始まってチューリップ、アヤメ、ツツジ迄が僅一月のうちに一息に咲き揃う。我々の移住はその終わりごろだった。ダウンタウンの東にある人造湖を借景にした花樹木園はアジサイの一種の白く大きな集合花が水面に姿を映しつつ、遠景にダウンタウンに林立する全面ガラス高層ビルが日を浴びて青く輝き臨む様はみずみずしく、それを見た時から砂漠の街のイメージは頭から離れた。でも暑い夏はそこから始まった。
 仕事先へは車を北に向けて運転して20〜30分。毎朝子供を学校に送る家内の車を見送るとそれとは反対の方角へと出かける。フリーウェイの20分は距離にして30キロ、ほぼ新宿八王子間を毎日往復するようなものだ。時には夕食を食べに戻ったり、子供の学校に呼ばれたりで2往復という日も少なくはなかった。ダウンタウンと呼ばれる都市中心近くに住む私は渋滞とは反対で、通勤は一日の中でも快適な時間だった。特に楽しみはFMの 101.6 MHzで常に聞けるクラシック音楽放送だった。かつて、NHK FMにあったようなクラシックアワーがプログラムの全部を埋め尽くしたようなものだ。これはまた、唯一英語を聞きとる緊張が無用の時間でもあった。
 上り車線は遥か20キロ以上にも及ぶ大渋滞が毎日続く。それもあってか毎朝早く、夜が明ける前からライトを点けた車がフリーウェイを疾駆する。こうしてみると、ダラスは乾ききった砂漠というより、むしろ緑と水に囲まれており、また人々はカウボーイのイメージのように荒くれでも牧歌的でもなく、まして成り金も目にしない。寧ろ勤勉で朝早くからよく働く、東京や大阪などで感じたのと同じビジネスマンだった。私の関心は目にする小動物達に移った。いや、もしかするとここでも英語を話さなくて済む相手に心が安らいだのかもしれない。
 クラシック音楽やフルートと並んで友としていたダラスの住宅周辺に住む小動物のことを書いてみたい。
 ダラスは鹿児島と同じ緯度で夏の太陽高度は高い。加えて大陸特有の季節風は夏に南のメキシコ湾の暑い風を運んでくる。が、海の湿度は海から七百キロ離れたダラスにはとどかない。そこはかつては肉牛がカウボーイに追われ草を食んだ乾燥した風の吹く平原だった。私の住んだ地区はダウンタウンの中でも北に位置し、大学キャンパスを中心とした森の中の住宅街だった。そこを歩くとしばしば目新しい動物に出会うのだった。
 もっとも驚いたのはポッサムだ。最初の対面は自動車に跳ねられた無残な母親だった。死んだ母親の丸いおなかに数匹の子供が吸いついていたのだ。救おうとの意見もあったが耳まで裂けたとがった口が恐ろしくて近寄る気になれなかった。2度目に出会ったのは他のほとんどの小動物の発見の時と同じ犬との散歩の朝だった。
 周囲の一戸建て住宅は私の借家を別にすればほとんどが豪邸と言ってもよい近代的で美しい石造りの家に広い芝生のアプローチを持ったものだった。それらの家は樹木の中を走る広い車道に面しているのだが、必ず裏手にはAlleyという小道があり、ごみの収集、電気水道下水、TVケーブルなどの敷設、整備に使用されている。私の散歩は犬の匂い付けに気を遣わずに済むAlleyからAlleyで、表通りは犬が落ち着いて私の体側を歩くようになる帰り道だけだ。
 そのAlleyは、自動車の通る道を挟んでずーっと遠く、多分街の区画整理の尽きるまで続く。クリスマスなどにはきれいに飾りつけられて観光ツアーが組まれるほど、人工的だが整然と美しい表通りに対して、手の入っていない儘の木が覆い被さりアーチをなしてみえる裏道の一点透視の構図はまったく意外な景観だ。そこは自然そのままの中を小道がどこまでも続くようで楽しい。小動物はその大半がこの裏道で見かけることになった。生きたポッサムは裏路地の茂みに丁度隠れるところだった。ごみ箱か、それに集まる甲虫などを捕食しているのかもしれない。不器用な足取りは車社会とは無縁だ.姿はこの地の代表的な珍獣アルマジロ。ただし鱗のような皮膚ではなくて茶灰色の毛皮だった。図鑑で調べると少ない有袋類の一種で夜行性とあった。耳はとがり、顔は細く仔犬程の大きさだ。気味の悪い口は地に頭をすりつけるように歩く姿勢からは目立たない。
 その名前を知ったのは会社の同僚からであった。私は会社にいるアメリカ人に何でもよくものを尋ねる。花の名前、木の名前、鳥の名前。尋ねてみるとおもしろいことに気付いた。草木の名前はあまり知らない。多分ほとんど関心がないようだ。これは多くの日本の若い人でもそうかも知れないが日本人には中に必ず詳しいそれぞれの物知りがいるものだ。それがいない。前述の花樹木園で年配のいかにも樹木の好きそうな人から始めて、そこの庭園の管理をしている人までが極めて名前を知らない。春まっ先に咲く花は何んだろうと期待に目を凝らしていた時、春を告げるにふさわしい、ラッパ水仙と丁度同じ時期、水仙の明るい黄色と好対照をなす深い青紫の4枚の花びらを平らに開花するビオラぐらいの背の低い植えこみに密生した草。これを尋ねまわって誰も自信のある名前を挙げてくれないのに驚いた。日本なら草木博士は必ずいてその説明に人柄が現れて、私が好む会話が楽しめるのだが。この地ではそれが「さあ?」でとぎれてしまう。まったくお話しにならない。それが虫の名前になるともっと顕著だ。山歩きやキャンプの趣味を持つアメリカ人を選んで虫の名を尋ねてもまったくと言って良いほど知らない。皆が知っているのは多分てんとう虫ぐらいだろう。
 ところが、ペットにジャンガリアンというネズミを飼っていると言う勤勉でアイディアマンのアメリカ人に私が見た奇妙に恐ろしげな、耳口、手先尻尾の尖った獣と説明をはじめた途端、彼は「それはポッサム。」と言下にいってのけたのには驚いた。そればかりか「綴りはo'possamで頭のoは発音しない。夜行性、有袋類」とすらすらと説明した。無論有袋類のところは私が専門用語を知らないと察して「おなかにバッグ」と噛み砕いて説明してくれた。ここで「ははーん」花鳥風月はからきしのアメリカ人も獣には詳しいな。そこは農耕民族と狩猟民族の文化の差だなと思った。


#2

ナナカマド短信10号/2003年7月6日

 夏の始まりの6月、森の中に石造りの外装の住宅が集まる大学の街ユニバーシティーパークを選んで、私達家族が移り住んだのは、当時高校と小学校だった子供の学校選択の事情から決めたことだった。
スーツケースひとつずつの移住だった私達には、引っ越しの片付けなど必要なかった。古い平屋の借家に子供たちの部屋割りを決めると、家具があるわけでもないので荷物をおろすだけで引越しは終わった。
 すぐ庭を接する隣家に挨拶をしに隣家の玄関に立った。
隣家は我が家の建物より大きく枝を張りどんぐりの実をつける大木がなす広い日陰が、二階建ての隣家を午前中はほぼすっかり覆う位置に建っていた。
 植え込みの間には季節のフラワーポットをあしらい、玄関のドアにはリースが飾ってあり、木陰の家並みに似合う、落ち着いた家だった。
 感謝祭、ハロウィン、クリスマスには各戸が競うように飾りつけ、特にクリスマスの時期には夜もライトアップされ、細かな電球の鎖が家と立ち木を縁取る。あたかもテーマパークのように飾りつけられ、観光ツアーまで出てこの街全体が観光名所となることなど、その玄関に立った時は知る由もなかった。
クードさんは50代後半に見える上品な婦人で、親しみ深くしかも丁寧に私たち子供連れの東洋人夫婦を居間に招き入れた。子供が大学に行っていて今家にいない事、ご主人は夕方勤めから帰ったら挨拶に伺うと短く説明した後、電気会社、水道、下水のサービス、ごみの回収、スーパーマーケット、電気屋、家具屋など必要なことを要領良く教えてメモに書いてくれた。教会については私がかつて日本で通った教会を今は離れたことを話すと、自分たちの教会に来るよう誘うこともなかった。彼らがどのような人間であるかは伝えながら、無駄なことは何一つ言わなかった。
 家族を連れてダラスに移った年、独立記念日の前日7月3日は土曜日だった。隣の家のクードさんは土曜の晩、我が家を尋ねて翌日のパレードを一緒に見に行かないかと誘いに来てくれた。それまで二回ほどは何か助けが必要なことがないか、困っていることはないかと目を配り、長居をせずさっと帰ってしまい、何かを押し付けることもない。この隣人程、親切で、それでいて少しもおしつけがましくない人はいまだかつて知らない。そのクードさんが「もしよければ主人の車に同乗し、パレード見物を一緒にしませんか」と誘ってくれたのだった。人ごみと車の混雑から土地勘がないと駐車する場所も見つからないだろうからと言う配慮だったのだろう。
 ご主人のクードさんは奥さんのようには社交的でないが紳士的で親切なことに変わりはなかった。最初に我が家に現れたのは奥さんのクード夫人が我が家に新しく買ったテレビの映りの悪いのを知って主人に見させますと言って帰った週の週末だった。
冷蔵庫、洗濯機、掃除機、テレビ、次々と購入する電気製品はどれも値段は日本とほぼ同じだが品質が悪い。日本では当たり前の物がどの店にもない。
 総じて運転音がうるさい。冷蔵庫の騒音は慣れるとなんとか我慢はできる。寝室や居間が台所から離れているのに助けられているおかげもある。洗濯機は別棟に置くから音振動は気にしないが、洗い終わった衣類を取り出しにいくと振動で一跨ぎほども移動していることがある。首につけた鎖が伸びきるように引いた犬の様な格好で洗濯機が水道栓につないだフレキシブルホースにつなぎとめられていることがよくあった。
 掃除機のうるさいのは吸い込みパワーの証として歓迎されているのではと疑いたくなるほどだ。会話もテレビもすべて遮ぎる。犬は逃げ惑う。私もフルートを持ってドアの閉まる別の部屋を探す。日本の掃除機などの電動製品の静音設計は誰も評価しないのか。引っ越したときから窓に取り付けたままの古いクーラーは窓を壊すのではないかと心配になるほどの音を出す。自動車技術者としてこだわり続けた静粛性こそが動く機械を生活の中に受け入れてもらうのに最も大切なことだという考えが、アメリカの家庭用電気製品にはいらないようだ。アメリカ国民の多様性の平均値は、ほぼ単一民族である日本人に育ったこだわりの価値観の平均値とは一桁違うのだろう。自動車屋だった頃、「音のうるさいものは女の人は怖がるんだよ。女の人が受け入れないものは普及しない。だから性能は落とさず、音は出してはならない。」と習った。この国では颯爽と働く女性は見るからにかっこいいが、なよなよとはしていない。技術職も管理職はもちろん、男と同じ力仕事をし、軍隊までこなす。掃除機の音などに驚かないぞという気概の表れかもしれないが、どこか必要な感性が欠如していないか。
 時々日本へ出張で帰ると日本女性の女らしさが大変麗しく目に映る。しかし、急速に言葉もしぐさもアメリカの若者と同じになりつつあると感じる。帰るたびにおいてきた大学生の長女の言葉が変わってきて、おかしいなと思うとテレビの若者の言葉がそれだ。麗しいしぐさとともに日本の女言葉はどこへ行ってしまうのだ。
 テレビは日本製の50インチの大きなのを買った。家の外が無用心なアメリカを安全に見るもうひとつの窓のつもりで奮発したのだ。売り場ではきれいに映っていたテレビを持ち帰ったところ映りは悪かった。有線テレビシステムにノイズが多いのかと思った。品質の悪い電気製品にあきれるのに慣れ始めていた私にはケーブルテレビのサービスもこんなものかなとあきらめかけていたところだった。
 テレビの調子を見て来なさいと奥さんに言われて現れたクードさんのご主人はひげを蓄えた知的な顔のがっちりとした体格の紳士だった。自分の所と同じケーブルを分岐していることを確認し、口数少なく分岐器具の絶縁性能の経年変化らしい、交換すれば治ると診断して帰った。確かに小さな三叉の高周波用の分岐器具を新しくしたら、テレビは汚れた窓をぬぐったように美しく透明になって今のアメリカが良く映った。彼は歯科医だった。


#3

初出:初出:ナナカマド短信11号/2003年10月19日

 そのクードさん夫妻がわざわざ翌日のその地区で行われる独立記念日のパレードの見物に私たち4人家族を誘いに来てくれたのだった。
 快晴の日光を避けられる日陰がパレードを見る上席。クード夫妻と木陰を譲りあいながら路肩の芝生に座ってパレードを待つ。手造りのパレードは高校生のバンドとバトンガールに続く地域の子供や名物消防士、人気者、市長などが普段はモーターボートを車の後ろにつないで牽くのに使うカートに木箱を載せて趣向を凝らして飾り、あるいはただの箱のままに乗り合い、観客に薄荷の飴を撒いて次々とひきもきらず行進する。土地の人たちは知人を見つけて歓声を上げている。どこが見所か分からぬうちに2時間ほどが過ぎパレードは終わった。全米のお祭りで、テレビにも必ず報道されるインディペンデンスデーもローカルなパレードはこんなものなんだと理解しようとしていると、クードさん夫妻が歩き出した。促されるままに人々でごったがえす公園に向かった。
 子供に風船を渡す人、ポップコーン売り、ハンバーグ売り、など祭りにつきものの喧騒から少し離れると、同じ公園の一角に動物のケージを積み上げたところがあり人だかりがしていた。ケージの中には茶や白や黒、毛の長いのや短い仔犬等がいれられており見物客が手を出してかまっていた。これはペットショップではなく、SPCAという慈善事業団体で地区内で保護され飼い主の見つからないペットの縁組斡旋をしているのだとクードさんが教えてくれた。私の二人の子供は、成犬と見える大きさにもかかわらず、暑気あたりなのかうずくまって一向に動かない黒い毛先の茶毛の胴体と頭に白襟巻きを巻いたような白毛が前足まで覆った犬を見つめてこれがいいと言った。私もどれよりも器量が良く毛が美しく、昔テレビ番組にあったラッシーのようで素敵な犬だと思った。不思議にそこに集まる人にはその犬だけは人気がなかった。これはラッシーのコリー犬より小型のシェットランドシープドッグだった。クードさんはごく自然に「次は犬がいるわね。」というように「気に入った犬はいますか」と尋ねる。家で犬を飼うのは家内が反対すると知っていたので何と説明しようかと頭の片隅で考え始めていた時だった。犬に釘付けになった子供たちを横目に見ながら、妻にどうすると聞くと「いいわよ」と答えた。
 耳を疑った。今でもこのときの妻の意外な返事に何かの因縁を感じている。後から妻に尋ねると、家内は、人ごみの中、暑さと疲れと英語の氾濫などでクードさんの言葉に判断を加える気持ちを失っていたのだそうだ。私は言葉の通じない学校へ通わなくてはならない2人の子供たちの心を和ませるのにペットは最適と、この機を逃さずに事を進めた。犬は2歳ぐらいで見掛けに似合わずまだ仔犬の年齢と言うことだった。犬で言うところのはしかにかかっているが獣医にみせて治療すれば助かる。なによりハートウォームという南部アメリカに多い犬の風土病の心臓病(日本で言うフィラリヤだと後で分かる)に感染していて治療には生命の危険がともなうが9割は大丈夫と説明される。犬は無料だが、これらの病気の治療と有料の去勢手術に合意しなければならない。他の人が誰も寄り付かなかったのはこの病気のためだったと後に気づいた。Sick puppy と言うのは厄介の代名詞なんだそうだ。毛の長い犬はダラスの暑さには耐えられないのでクーラーの利いた家の中で飼うことになるが良いかという質問にもクードさんの助けを得ながらイエスと答え、色々と同意書にサインをして犬を引き取って帰った。
 この犬はその4年後日本へ帰った今も片時も私から離れず常に私の隣でうたた寝をしている。当時は、引き受けてきてからしばらくの間、いつもその犬は我が家の一大事の中心にいた。
 思い返して何度も不思議に思うのは、あの何も押し付けない、本当に必要なものから、知恵を貸し、手を貸してくれるクードさんが、犬が好きかどうかも訊かず当然のように犬を見せてどれにしますかと聞いたことだ。彼女は隣家であるため私たちの借りた家の広さ庭の広さを知っていて、また私たちの暮らしぶりを助けながら見ていて極く当然のように犬を手に入れる機会を探してくれたようだ。宗教の選択の問題にはまったく立ち入らないのに、犬を飼う飼わないの選択については考える暇もあたえず、まるで家具を揃えるように「次は犬ね」と案内してくれた。その何の疑いもない事の流れに妻もつい連れ込まれたのだろうと思う。
 犬は息子が独立記念日にちなんでTriumphと名づけた。これはすぐに日本語になまって短くつめてトラ(寅)となった。クードさんは私たちにとって頼りになる親切な隣人でトラにとっては縁組の仲人でまた命の恩人となった。
ダラスの夏、初めて体験した見所の定まらない独立記念日のパレードは犬との不思議なめぐり合わせによって忘れられないものになった。
 暑さが原因とばかり思っていた生気のないトラは実は重体だった。それから数日何も食べずひたすら寝ていた。水も飲まなくなった朝、医者につれてゆくまでもなく死ぬと覚悟した。そのとき、クードさんが犬を飼っているジョギング友達と2人でジョギングの格好で手に片手なべを持ち早朝に玄関に現れた。風呂場のタイルに熱のある体を横たえて冷やし目をつぶっている犬の口をこじ開けて水を飲ませた。水を口にしたあとは、彼女が持ってきたおかゆも少しは飲み込んだ。こうして少し元気を取り戻し、彼女が紹介してくれた獣医に掛り、その約2週間後にようやく外を散歩するまでになった。その頃になって犬が啼くことが出来ると皆で喜んだぐらい、2週間あまりは声もなく弱っていた。彼の災難はまだ続いた。その後、痛みで1割の犬が死ぬほどの治療を受け心臓に寄生した虫を駆除し、回復を待ってさらに去勢手術を受けた。
 思えば大変な思いの半年を私たち家族にもらわれてから経験したことになる。それらすべてのストレスのため後で体の毛があちこち抜け落ちる禿が出来たりもした。それに比べれば、学校で口の利けない子供たちの苦痛はたいしたことはなかろうと言うことで、子供たちも耐えたようだ。言葉の分からないことを言えば、犬も妙な言葉を使う飼い主に戸惑ったようだ。やっと元気を取り戻したトラが、隣のクードさんの言葉によく反応して、聞き分けるのを見て、英語で指示をしてやる必要があると分かった。2歳までに英語の命令になれており、日本人家庭へ養子となって後の日本語は了解度がひどく悪いらしいのだ。メSitモは明確に分かるが、「お座り」を繰り返すと知っている限りのことを全部する。トラの言語ショックも禿の原因のひとつだったようだ。
 子供たちが犬の世話に飽きるのはさして時間がかからなかった。トラは兄妹の犬から私の犬になり、トラと私の朝晩の散歩は長い夏と、足早に過ぎる秋、葉を落とした木の枝振りが青空に映える冬、そしてまた花の春とダラスの季節感を大いに楽しませてくれることになった。


#4

初出:初出:ナナカマド短信12号/2004年1月25日

 サマータイムのため出勤2時間前はまだ暗い。新聞配達のトラックが低速で走りながら、大量の広告とジャンル別に分かれた新聞でいっぱいに膨らんだポリ袋を玄関前の芝生に投げ込むずっしりと重い音。早くから仕事に向う家がガレージを空ける音。朝と夕方に自動的に回りだすスプリンクラーの羽根を噴流が叩く音。リスが屋根の上を鋭い爪をたてて駆ける音。それら夜明けの気配でトラはベッドの私を窺う。猫のように引っ込めることの出来ない足の爪が木製の床をチャカチャカと叩く音が枕元に近づく。顔の前に突き出された鼻面を押し返すと今度は毛の長い尻尾の風が顔を撫でる。これで私は起こされる。

 いつもトラと散歩する裏通りAlleyに出てすぐに行き逢うのが尾の長く、目に縁取りのある色の黒い鳥。勝手口に面したAlleyはゴミ箱も多くこのカラスもどきも最初にAlley で出会った。カラスのように人を恐れない、その啼き声はまるで昔のノイズの多いテープレコーダーの再生音に似ていて、カシャという音とともにまずザラザラとした嗄れ声で、さしずめ「んっ、えー・・・」とのどを整えてしゃべりだす濁声の政治家みたいだ。それからガーァガラピシャと啼く。図鑑にはボートテールグラックルと出ている。啼き声のところは「グラックル」となっていた。尾の形と啼き声との合成で命名されているのだ。戸惑わされることが多い英語の擬態語の中ではきわめて納得できるもので、すぐにこの鳥の名は覚えた。漆黒に見えた羽根に強い日差しが当たると、実はとても深い緑色がかった黒だとわかった。ザラザラ声で機械音もどきの啼き声の主は実は美しい羽根を持っていた。

 スプリンクラーの水滴が朝日できらきらと光るようになると、日中は熱さを避けているのか姿を見せない鳥が、芝生やその周りの樹木の枝に次々と現れる。そしてまだ姿の見えない、いろいろな種類の鳥が競い合って鳴きはじめる。移り住んで間の無い頃、聞きなれない多くの鳥の啼き声に、これは一体何種類の鳥がいるのだろうと思った。ところがこの歌声の競演は実はたった1羽の鳥が啼いているということが後になってわかった。
ユニバーシティーパークと呼ばれる森の住宅地の南の縁を東西に走る通りにはモッキンバードという鳥の名がつけられている。
 それでモッキンバードの名はすぐに覚えたが実体は大分後になって図鑑を見て知った。鳥はねずみ色の背に白い腹をした地味な姿で、主に茂みの中にいるため余計目立たない。ところが鳴き声はなんともバラエティーに富んでいる。美声で当地の名物カーディナルから例の濁声のボートテールグラックル、ジェイと啼くだけの背中の青いブルージェイ、すずめ、ムクドリ、その他何でもござれで啼き真似をするのだ。どれが本人のものかはわからない。

これが始終家のすぐ近くでこの地区の一切の美声悪声の鳥の鳴き声をまとめて披露するわけだ。これには新顔の私はすっかり騙された。姿を見せぬさまざまな鳥が、いつも家の周りで競い合って啼いているとばかり思っていたのだが、大抵はこの地味な姿のおしゃべりがすべて一人で演じていたのだ。
 図鑑には何と犬の鳴き声、果ては車のクラクションまで真似することがあると書いてある。見分けが付くようになってからよく観察していると、この鳥は大変なお調子者で全部歌い終えるや小さく舞いあがって、ぎゃあと啼く。それは「どんなもんだい上手いだろ」と言わぬばかりのディスプレイだ。羽根を広げ小さく輪を描いて舞い上がったときに、この鳥の決定的な目印となる羽の先の白い2本線の腕章みたいな模様がくっきりと茂み越しに見えるのである。この蛇足のデモンストレーションさえしなければ、もっと長い間私は騙され続けていた筈だ。

 鳥の啼き声は数ヶ月もすると聞き分けられるようになったが、人の話す英語を聞き分けるにはその倍も3倍も時間がかかった。
 英語に悩まされて、偏頭痛、肩こり、胃痛など体の不調が数ヶ月続いた。
 偏頭痛の原因は英語ノイローゼが半分で、あと半分はアメリカ版花粉症だった。日本とはアレルゲンの発生時期が異なるのだ。日本では年に2度ある花粉症体質に加え、毎月の日本への出張帰国がこれをさらに複雑に増幅した。てっきり頭に異常があるとおもってCT診察を受け脳の断面を見せてもらって説明を受けた。CTによる頭部の縦割りの像を見ると、丁度後頭部の深い部分で痛みを感じるのに符合する延髄のあたりに、背中の方から上に向ってなにやら白い楔状のものが突き立っている。先生は断層撮影像を指し、前頭部から始めて「ここは異常が無いようです」、次に「エーと鼻の骨が曲がっていますね、これはたいしたことはないです」。前の方から説明を始めて後ろの方へ説明を進めてゆく。と、私が怪しんでいたあの白い楔の所に来るとすっと通り過ぎて「首の骨は・・・あー、異常ありません」と説明を終わろうとする。自分から尋ねるのが怖くて躊躇していたのだが、先生がわざと説明を避けていると見て取り、意を決して「先生これは何ですか、この白いものは?」と尋ねた。すると「ああこれね、これは脂肪です」と一言。
 効きすぎる花粉症の薬の適量がやっと分かるようになった何シーズンか後、英語の会議にもなれたころには偏頭痛のことはすっかり忘れた。


#5

初出:初出:ナナカマド短信13号/2004年4月4日

 ある朝、食後のフルートを吹くのをやめて庭に面する窓から聞こえる妙な連続音の来る方に目をやった。音はインパクトドライバーとかリベット打ちのような騒音で、この機械的な間欠音が小鳥の仕業だと理解するのにしばらく時間を要した。中庭を挟んで北側にある洗濯小屋と呼んでいる別棟の屋根の上に私が枝打ちして幹だけになった木に背が黒と白の縞模様で腹は白く頭の赤いきつつきがせわしなく穴を穿っていた。工事は二、三日で終わり、洗濯小屋の屋根には繊維状の木屑が栗の花が散ったように降り積もっていた。
 頭の赤い冠の大きいオスが巣穴を掘り終わるとすぐに頭の赤い羽根の部分が小さいメスが巣穴に入った。とても作ってから恋人探しをしたようには思えない手際のよさだった。

 もしかするとあの小気味の良い音もメスを呼ぶ技なのかもしれない。いくらそう生まれついたとは言え、高々と乾いた音を響かせて木を穿てば、くちばしに勢いを与えている頭部の中身には大変な衝撃がある筈。「かかかかかかか」と鳴って少し間が開くのは、脳震盪を起さんばかりの振動に薄れてゆく意識を、間をおくことで取り戻しているのではないかと思う。打撃が等間隔なのは貧乏ゆすりみたいなもので脊髄での反射がこの反復動作を助けているのだろう。きっと意識しなくても動作が続けられるのだろう。しかし間をおかずに続けているとしまいには気を失って木から落ちてしまうのではないかと思う。
 この危なさと紙一重の手際の良さが、まるで活力の溢れる大工かとび職の仕事のようで実にいなせで見ているメスのこころをしびれさせるのではないだろうか。つまり、巣作りがメスへのデモンストレーションでもあるのだろうと思う。

 鳥は図鑑によるとレッドベリード・ウッドペッカー、日本で言う赤ゲラの仲間だ。私は自分の家のある敷地の(借地の)木にきつつきが巣を作ったことに興奮した。私のフルートの練習は出かける8時20分ごろまでの間の30分ほどだが、このときは譜面台を中庭の見える窓辺に寄せて置いて、きつつきの様子を眺めながら吹くのだった。何日かが過ぎて夫婦どちらかの鳥が何か白い丸いものを咥えて巣穴から飛び立つのが見えた。翌日、同じ時刻8時10分にまた白いものを咥えて庭を横切った。今度は確かに見た。あれは卵だ。どういう行動なのかという疑問が湧いた。
 コーヒーブレークのとき会社の仲間に意見を聞くと、あるものは、巣の引越し、あるものは食べたんだと。そして女医で当時、新たに会社に加わりすぐに副社長になったスーザン・アンは産児制限だろうと。
 メスが一晩中卵を温め朝にはオスが代わる。メスは食事に出かけ10分ほどで巣穴にもどる。その隙にオスがまた卵を咥えて飛び立つ。これが数度繰り返された。

 答えは中学と高校に通う子供たちが夏休みとなって妻と帰国し、自分とトラとの生活になってから分かった。トラときつつきは、子供のいなくなり急に静かになった家で一人笛を練習するときの、どこか寂しい家の空気を暖めてくれていた。

 雛が孵ると巣の下には糞が散り、洗濯機を回すためにそっと木の下を通るとガチャガチャと雛の鳴き声が聞こえた。何羽かは分からないが2羽以上いるらしかった。きつつき夫婦のえさ運びを眺めつつ、フルートの練習をする日課は楽しかった。

 きつつき夫婦の虫を運ぶ頻度はそうは多くない。フレーズを何度かさらって次へとすすみ、さっきえさを持って帰ったのはもうどこのフレーズだったか分からなくなった頃戻ってくる。ダラスでは樹木の多い地区ではあるが住宅地なので、えさの昆虫も自然林のようには多くは見つけられないのだろう。特に熱い日中は虫も出てはこないはずだ。とすると育てられる雛の数は限られるわけか。これを卵を抱いたときに親鳥は直感したのだとそのとき分かった。唇を歌口に、胸に自分の思い出の自然美への感嘆や恋の熱情の想像をモーツァルトの華麗なフレーズに重ね、譜面を追う視野の上半分は赤い帽子を振りながら愛らしく振舞うきつつきに割り当てて悦に入っているときに、きつつきは孵す卵の数を減らすというぎりぎりの選択をしたのだと気づいて、思わずフルートから唇を離した。きつつきの背の黒の横縞が凛として見えた。

 雛の巣立ちはある日突然に巣がもぬけの空になって知った。雛の1羽ずつが次々と羽根を広げ、跳躍を繰り返し親が励ましと、にぎやかで感動的な巣立ちを想像し期待していた私は気抜けした。
 9月に入り、子供たちも日本から戻りそれぞれが学校に通うようになって、庭で巣立った雛らしききつつきを家の周りに良く見かけた。来年の夏もきっとここで子育てをするだろうと楽しみにしていた。

 ある夕方、大家が伸びすぎた庭の立ち木の整理に庭師をよこした。彼らは躊躇無くきつつきの巣穴のあるあの幹を切り倒した。私が帰ると道の傍らにすでに丸太材のようにきつつきの子育ての跡を印した木が横になって積み上げられていた。鳥の巣穴は木の腐食を早め、予期しない倒木で人に怪我をさせるかもしれないため巣穴のある木を選んで切り倒すのだそうだ。借家では仕方ない。大家の説明を聞きながら、胸の中で泣いた。


#6

初出:初出:ナナカマド短信14号/2004年7月4日

 朝7時の散歩は真っ暗闇で、それが急に明けるようだ。日本に比べて薄明の時間が短いように思えた。空気中の散乱粒子が少ないのためかと思う。Alleyには表通りには無い電信柱があり、その電線に何か黒く楕円形のスリッパぐらいの大きさのものが引っかかっているように見えた。トラを歩かせながら目を凝らしながら近づくと、その黒い物体もわずかだがこちらの動きにあわせて向きを変えているように思えた。大きな鳥ぐらいの大きさだが、電線は鳥が眠るには開けっぴろげで不自然だ。いよいよ真下まで近づくとその丸っこい物体にはうっすらと顔のようなものがあるのが認められた。そして確かにこちらを注視しているのが、体のひねり方でわかった。
 ふくろうだった。多分コノハズクとかいう小型のものなのだろう。この森にふくろうがいるとは思わなかった。いままで一度も見たことはなかった。でも確かに自分の目で間近に見ると、ああここにはふくろうがいるとわかる。すると不思議なことにその後の散歩で何度も小型のコノハズクを目にするようになった。枝の込んだ木立の中に、枝に残った枯れ葉と見分けにくいその羽根の模様にもかかわらずぱっと目に飛び込んでくるようになった。これは認識の不思議である。先入観に助けられて物を見ているのか。先入観が無ければ見ても分からないのか。
 かつてユダヤ人の英会話先生に、アメリカのTVコメディー番組には、聴衆の笑い声までが録音されているわけを尋ねたら、「彼らはどこで笑ったらよいか自分では分からないので、安心して笑えるようにここで笑って良いよと教えているのさ」と言って笑っていたことを思い出した。私の意識も先入観にここでふくろうを見てもよろしいかと尋ねているのかもしれない。
 同じことが所沢に引っ越したときにもあったことを思い出した。畑の中に家を建てたので家の周囲にはやわらかい土の残った原っぱが宅地として売れ残っていた。当時手を引いて散歩させていた長男と原っぱの土にいくつもの鳥の足跡をみて、これは鳩、これは烏、これは雀、これは椋鳥と納得していた。それがあるとき近くに住む犬を飼っている人から、犬が雉に襲われて困ると聞かされた。雉などこの町にいるんですかとびっくり。その翌日、いつも子供と遊んでいた原っぱに、緑と青の羽に赤い頭が美しい大きな雉が悠然と草の間を泳ぐように移動していたのを見た。そして足跡も、これは雉の足跡だとわかった。今まで見てもなんだかわからなかった足跡は観た気がしなかったのだろう。でも蹴爪のある足跡は歴然と雉を物語っている。自分は一体何を見ていたんだろう。そして、いるはずとわかったときにはじめて、それまでも目に入っていても気が付かなかった大きな雉がそれと認識されたのだ。すると、普段私は多くのことを見落としていて、しかもそんなものは存在しない、ありもしないと思い込んでいるのではないだろうか。新技術開発を仕事にしていた私は世の中にはないものを、実際に手に取るように思い描き、それにたどり着くのが仕事だった。ちょうど雉や、コノハズクが見えるようになることのさかさまが仕事であった。
 雉やふくろうの例から推して自分の判断などは相当にいい加減なものなんだろうと思う。これまでこれでずっとやってきたかと思うと背中が寒くなる。
 フルートを何年もとりとめも無く練習し続けるのも、いつの日にかフレーズを心に描いたとおりに踊りぬける希望を持っているからなのだろうか。それともいつか目からうろこの経験が出来るかもしれないと漠然と待っているのだろうか。何年も続けるうちにそのどちらなのか考えて見ることもなくなった。多分ただ脳にアルファ波が満ちるのをもって善しとしているのだろう。

 去年の2月の初め、ひときわ空の澄んだ朝、これまでに無く遠くまで犬と散歩に出かけた。空に見慣れない方角へ伸びる飛行機雲を見て、何か自分が見たことに特別な意味があるような気がしてならず、じっとその方角を見定め、時刻まで記憶しようと時計を見た。7時55分だった。帰宅しても不吉なほど青い東の空に高く遠く飛び去った機影に何か胸騒ぎがした。そしてコーヒーを温めているところへニュースでコロンビアの帰還が報じられた。テキサス上空を通ると報じている。8時10分。交信が途絶え行方が分からなくなっているとアナウンサーが大声を出していた。そして8時20分に空中分解が報じられた。あとになって最初の落下物は私の居た町から数十キロしかはなれていない場所だと聞かされた。私の不吉な予感は当たったというべきなのか。というより何か既視感(deja vu)のように思えた。私の見た物はコロンビアでも、その一部でもないことは確かだった。その時刻にはコロンビアはまだカリフォルニアの辺りだったし、機体の分解も起きていなかった時刻だ。ただの予感だったのだろうか。私と犬の散歩があと十数分遅ければ、胸騒ぎがして空を眺め回していた私はきっとコロンビアの飛行機雲とその分離を見たはずだった。
 見ようとして見たのでなく、何か別の意識が先に起こることを感じさせた経験だった。

 ダラスの春は瞬く間におとずれる。メキシコ湾の暖かい気団が北米の冷たい気団と拮抗してそれがテキサスに流れ込むようになると途端に春になる。その急激な切り替わりには北から南に北米大陸を縦に別つロッキー山脈が流体素子のジェット部のように作用して、本当に1日で冬から春の風に切り替わる。すると、散歩道に土の香りのする湿り気のある風が吹いて急に鳥が強く鳴くようになり、あちこちの草木がつぼみを膨らませる。それまでに1週間もかからない。
 昨年の春にダラスを引き上げ、今年は日本で桜花の美しい近辺を次々と訪ねながら、今時分はダラスは白いペアツリーが咲いている時分だろうかと、ダラスの春も気にかけている。日本の春の美しさに比べるべくもないが、4月に風と共に来て強い5月の光線に焼き尽くされて消えるダラス花の季節も桜に似た生き様がある。もう行く必要がないテキサスが少し懐かしくなりつつある。
 ダラスから連れ帰ったトラは何の気負いも無く、今も私の横に長々と寝そべっている。

(完)